■ひな祭り
3月3日はひな祭り。
伊達の開拓記念館では、館内の展示物の無料観覧を実施して、甘酒をふるまってくれる。久し振りに出かけてボランティア説明員の方に展示物の説明を受けながら見せていただく。
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それにしても明治の初年に、故郷仙台の亘理を離れて、胆振の国有珠郡に新天地をもとめて海を渡ってきた人々の思いはいかばかりであったろう。
初めに視察調査に渡った人々は亘理から陸路を来たそうだ。
鎌倉時代の作と伝えられる刀が展示されていた。元々はもっと長い太刀であったが、江戸時代に当時の刀の形に短く作り直したそうだ。また江戸城に登城の際、刀を預けるがそこで、「どこそこの大名の刀の作りは」と話題になるので、恥ずかしくない作りを心がけた。鞘も登城の際のしつらえは黒と決まっていたそうだ。
有珠での開拓のリーダーは藩主であった伊達邦成である。彼を支えた参謀格の人物が、田村顯允(たむらあきまさ)であった。田村は若いころ昌平黌(東京大学の前身)で学んでいて、その頃の人脈が胆振の国有珠郡を明治政府から分け与えられるときに役立っていたのではないかと教わった。蝦夷地を何回か探検した松浦武四郎は、胆振の国有珠郡は気候温暖でいい場所なので、賊軍に分け与えるのには反対の意見を持っていたとも教わった。
開拓の当初は原始の森が広がり、その鬱蒼とした森を切り開き耕作地にするためには、血のにじむ努力があったであろう。伊達の開拓団は家族を伴い、背水の陣でこの地にやってきた。その人数が多かったことも開拓面積を増やし、ビートなどの新作物の植え付け量も大きくできたのだろう。ビートの安定供給が可能であると見込まれたことが、日本で初めての製糖所が伊達の地に作られた理由にもなったのだろう。
伊達の開拓団は、1870年(明治3年)3月27日に亘理を発った第一回移住者250名を皮切りに、1881年までに9回にわたり、総勢2600人が移住した。邦成の義母にあたる伊達保子(貞操院)は、第3回の移住者と共に北海道にやってきた。保子は1827年に仙台藩11代藩主斉義(なりよし)の娘として生まれたお姫様だった。18歳で亘理伊達家14代邦実(くにざね)に嫁ぎ、豊子ら8子をもうけた。後に岩出山伊達家から邦成が養嗣子として迎えられ、豊子と婚儀を結ぶ。
過酷な北海道での開拓について、保子の兄である旧仙台藩主である慶邦(よしくに)は妹の身を案じてこんな歌を送った。
かかる世に生れあはずばはるばると
蝦夷が千島に君ややるべき
だが、保子のこころは決まっていて、
すめらぎの御国のためと思ひなば
蝦夷が千島もなにいとうべき
と返した。お姫様として育った保子が家臣たちと北海道に赴き、開拓の現場で苦労を共にしていくことは、家臣たちの大きな心の支えになっていった。
移住には莫大な費用がかかった。邦成は家宝の刀剣、甲冑、書画、茶器、屏風などを売り払い3万両余と米7350俵を用意したが足りない。保子は自分の所持品を売って開拓費の足しにするよう促した。固辞する邦成に、
「あなたの孝養によって何の不自由もありません。山海の珍味も錦の衣服も、ましてやお金など、わたしには何の用もありません。(中略)自分に用がないこれらの品々が、あなたのお役にたつならこれにまさる喜びはないのです」と云って、開拓費をまかなったといわれる。そんな中でも一部調度品を北海道に持参した。桃の節句に保子の豪華な雛人形を見て、開拓者たちはしばし心の安らぎを得たという。厳しい開拓だから、精神を安めるものが必要だったのだろう。
開拓の様子を描いた小野潭(おの ふかし)の絵の中には、保子が開拓者と交って励ましているものもある。開拓者にとって保子が自分たちと共にいてくれることが、どんなにか大きな励みになっただろう。
開拓が一段落ついた頃に、保子は次の歌を詠んでいる。
にいばりに力を尽くせしももちはた
珠有る里となりにけるかも
意「新たな開墾に力を尽くした数多くの畑は、珠のような美しい村里になったことです」
「有珠」の地名と「珠有る」をかけた保子の歌から、苦難を乗り越えた深い感慨が読み取れる。
北海道に8年近く住んで、TVニュースなどで見聞していると、道東や道北、日本海側は猛烈な吹雪や降雪に見舞われることが多いが、伊達ではほとんどそういうことがない。特に今シーズンは毎週末に北海道の東方沖で低気圧が発生して、道東地方に暴風雪を起こしている。中標津では雪かきに追われて、もう雪はたくさんという状況だ。伊達はそのようなニュースを見ると申し訳ないくらいに雪は少なく冬の気象的には恵まれた土地だと思う。今年は特に雪が少なく、2月末には道路にも、庭にも、畑にもほとんど雪は消えて、丘の道沿いにはネコヤナギの芽吹きも始まっていた。
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伊達の館山公園に登ると、伊達の街を一望できる。
西には有珠山や昭和新山を望み、東には紋別岳や稀府岳が町を守るように立っている。その山のすそ野に町が広がっている様子がよくわかる。紋別岳の扇状地の平らなところに町が広がったことが伺える。反対側を見ると青い噴火湾の海が控えている。ここは山と海に囲まれたおだやかな土地なのだ。
おだやかな気候と日照時間が多いこと、肥沃な土壌などが畑作に適し、開拓が進んでいったのだろう。
もう少しすると、館山公園に桜の花が咲き、山々は新芽の様々な色に染まり、畑は耕されいろいろな畑作物の緑の苗が植えられるだろう。畑の上ではピーチュクとヒバリが舞い、山の雪は日ごとに減っていく。
◆参考資料
JR北海道 車内誌 2012年3月 特集「お姫様に学ぶ、女の武士道」
から引用させていただく
(2015-3-4記)