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[2014.01.08]
■洞爺湖電気鉄道
昭和の初め、噴火湾側の虻田駅(現 洞爺駅)と洞爺湖温泉を結ぶ電気鉄道があった。  
昭和4年に開通した洞爺湖電気鉄道である  



以下、火山マイスターの木原敏秋さんが調べられた資料を基に、この物語を記してみたい。  
 
話は、長万部と室蘭の輪西(現 東室蘭)を結ぶ長輪線(現 室蘭本線)の開発から始まる。この区間は途中に礼文華海岸という崖が海に迫る交通の難所がある。明治の頃から開発の話は起こったが、この難所のために話が途絶える。この区間の鉄道敷設は諦めて、北海道の海の玄関口を函館から室蘭に持って来ようという話も起きた。そして室蘭と札幌がつながれば、噴火湾沿いはあえて鉄道を敷設しなくてもいいではないか、という考えである。それは幕末から港として栄えてきた函館にとって由々しき問題で、噴火湾沿いの町村を巻き込んで反対運動を展開した。そんな経緯があったが、ようやく大正8年にこの区間の着工が決定して、4年後の大正12年に先ず長万部―静狩間が部分開通した。続いて2年後大正14年に輪西―伊達紋別間が開通、残る難所静狩―伊達紋別間が完成して全線開通したのは、昭和3年9月であった。  
当時鉄道の敷設は、政治(政党)絡みの大事業(工事)であった。この時代胆振地区にあっては、室蘭の栗林五朔(政友会―三井系)、同じく楢崎平太郎(民政党―三菱系)が覇を競っていた。鉄道開通の前年に栗林五朔が東京で客死するということがあり、補欠選挙が行われることになった。この頃、小樽の財閥の御曹司板谷順助は政界進出を狙っていたが、地元からの出馬が難しい中、胆振地区での立候補を考え、栗林五朔のあとの政友会の公認をもらいこの補欠選挙で当選を果たした。ちょうどそのような時期に長輪線(長万部―輪西を結んだので、そう呼ばれた。現在の室蘭本線)が完成して、胆振に乗り込んできた順助は、洞爺湖温泉の開発に着手しようと考えた。木原さんの考えでは、後志に居を置いてきた順助にとって、胆振の地に入るには何か“手土産”が欲しかったのではないか、ということだ。  
その手土産が、洞爺湖まで鉄道を敷く、そして今でいうリゾート開発を手がけて地元に潤いをもたらそう、ということであったのかもしれない。  
順助は昭和2年5月に「洞爺湖電気鉄道株式会社」を設立し、鹿島組による路線工事を進め、昭和3年12月に路線が完成した。翌昭和4年1月から虻田駅と洞爺湖駅間8.8km、4駅(1つは湖畔の貨物専用駅)で営業を開始する。電車は50人乗りで、虻田から洞爺湖まで22分かかった。虻田―洞爺湖間の運賃は片道40銭、往復60銭であった。  
この当時、北海道で電車といえば函館と札幌に市電が走っていただけなので、洞爺湖に電車が走るというのは画期的なことだっただろう。  
開通間もない昭和4年6月には、札幌の北星女学校の生徒50数人が修学旅行で、この電車に乗って洞爺湖を訪れ、関係者を喜ばせたという記録もある。  
温泉側にできた洞爺湖駅は、三角形の瀟洒な建物で、当時としては人々にモダーンな感じを与えただろう。高い三角屋根構造なので、建物の中は吹き抜け構造だったのかもしれない。  
この電気鉄道は、昭和16年に廃止になる。廃止された後、幼かった木原さんはお母さんに連れられて洞爺湖駅舎に来たことがあった。そのときはとりを飼う鶏舎として使われていた記憶があるそうだ。建物の屋根の色が何色だったかは、思い出せない。モダーンな外観から、赤や緑のあでやかな色ではなかったかと想像する。昭和12年発行、金子常光画の洞爺湖温泉鳥瞰図には、緑に塗られた駅舎が小さく描かれている。今回そんなことから挿絵では緑色の屋根に塗ってみた。また電車の色については、おそらく戦前の車両だと、チョコレート色あたりかなと思ったが、あえてモダーンな青系にしてみた。ここには歴史的な考察がはいっていないことをお断りする。  
この鉄道は、有珠山と見晴山の間を抜けて洞爺湖側に行くのだが、急勾配や急な曲がりがたくさんあった。この鉄道の一番のハイライトは途中の見晴駅からの眺めだっただろう。虻田を出発した電車は、旧洞爺湖幼稚園あたりから泉公園線のところを通り、ずうっと登っていく。旧消防署の先の山陰を抜けたあたりでぱっと視界が開けて、洞爺湖の青い湖面、真中に浮かぶ中島、そして湖の向こうの羊蹄山などの景色が一気に目に飛び込んでくる。この峠の見晴駅からの眺めは、日本の景色の中でも秀逸なものだっただろう。この駅に着くと旅客には、しばし降りてこの景色を楽しんでもらったのかもしれない。  
板谷順助は、鉄道をどんなコースをとって走らせるかについて、事前に洞爺湖上空を飛行して検討した。おそらく峠を越えると一気に湖や羊蹄山が目に飛び込んでくる、この見晴台のあたりの景色に着目して、コース設定したに違いない。  
 
 
洞爺湖駅は山裾の高い位置にあった。現在では砂防施設の中に入ってしまっている。この駅から洞爺湖に向って長い駅前道路ともいうべき道路が緩く下っている。現在、この通りの近くに洞爺観光ホテルがある。やがてこの道路の両側には桜並木が植えられ、往時みごとな桜を咲かせて花見客でにぎわった。いまでも洞爺湖文化センターに近いこの通り跡には、桜の樹や切り株がわずかに残る。  
板谷順助は、鉄道敷設によって洞爺湖温泉へのお客の誘致を考えるとともに、この地を一大リゾートにしようと考えていたようだ。洞爺湖駅のそばの緑地には、ゴルフ場、野球場、陸上競技場、テニスコート、冬にはスキー場などの施設を設けて、洞爺湖・羊蹄山の景色を背景に持つスポーツ健康村を作ろうとした。昭和初期のこの頃としては、斬新なアイデアであった。  
特にゴルフ場は、観光客誘致の目玉商品で、当時としては思い切った投資をして、10ヘクタール、9ホールのものができた。北海道のゴルフ場の始まりは昭和3年、銭函カントリーの3ホールのコースであった。国内では明治34年、六甲山の4ホールコースが最初と云われている。これらのことを思うと、洞爺湖の9ホールのゴルフ場は当時大きなものだったことがうかがえる。  
この鉄道のもう一つの目的は、洞爺湖対岸の洞爺村早月にあった金鉱山からの鉱石の輸送にあった。湖上を舟で運び、温泉側の貨物駅から電車に乗せて運び出していたが、開通した昭和4年8月に鉱山が休山になり、大口の貨物需要が減った。  
この鉄道は、太平洋戦争に突入した昭和16年に廃止となる。  
胆振縦貫鉄道がこの鉄道に並行する形で伊達紋別―徳舜瞥間を開通させたこと  
急勾配、急曲線が多いため軌条の磨耗が激しく、資材価格の高騰で軌条や枕木の入手困難  
並行するバス路線の存在  
などの理由もあるが、営業収支を見てみると、営業収入に比べいつも経費の方がかかっている。国や道からの補助金でまかなっていたようだ。  
 
元東北大学教授・元秋田大学学長であった渡辺万次郎氏が、昭和49年に書かれた「洞爺の憶い出」という一文を紹介させていただくと、  
*洞爺湖はわが一生中最も深い憶い出の里である。初めは鉱山の調査や火山の観察の基地として、次には学生の指導や家族の慰安のため、戦後は地熱調査の一行に加わり何回となくここを訪れ、その度毎にその発展に目を見張った。  
わたしが初めてこの湖に親しんだのは、大正15年(1925年)8月で34歳の時であった。当時は長万部室蘭間に列車もなく、主なる交通は函館本線の森駅から、汽船で一旦室蘭に渡り、それから逆に有珠・虻田・弁辺の沖をめぐり、ハシケで上陸する外なかった。虻田から洞爺の湖畔までは、荷馬車の通れる道だけで、峠の南側の斜面は牛の放牧場であった。今の洞爺湖温泉はまだ床丹温泉といわれ、宿屋は木造2階建ての望羊館と長い平屋の一号館との2軒だけで、望羊館は坑夫出身の男が経営していた。(中略)  
ここの2階に数日滞在、鉱山や火山の調査にあたった。夕方縁先に机を出して、その日の結果を記していると、鏡のような水のおもての中の島の彼方、仁成香台地に裾を拡げた蝦夷富士の影がうすれてゆく。向洞爺の灯が細長く水に映る。そこはずい分早くから札幌在住の外人などの静養地として知られていた。(中略)  
ところがその後僅かに数年、昭和5年(1930年)の夏有珠火山調査中の学生指導に洞爺湖畔を訪れた時は、かつての床丹温泉は洞爺湖温泉として旅館が連なり夜は歓楽の巷と化して、かつての望羊館はなく、主人は船宿を営んでいた。虻田との間はバスで結ばれ、遊覧船が湖上に浮かび、その桟橋に釣糸を垂れてもウゴイは容易に針があってもかからなかった。  
それでも洞爺に憧れた私は、昭和8年家族4人を同伴し中の島に渡ってザリガニとたわむれ、向洞爺の昔にも変わらぬ静けさを舟の上から懐かしんだ。長女が東京の学校に移った年であった。その後も温泉を訪れたがもう普通の歓楽郷で、洞爺の味は失われていた。  
最後にここを訪れたのは戦後の昭和27年(1952年)地熱協議会の一員として、大戦中の噴出にかかわる昭和新山が、焼けた巨大な香炉のように、もうもうと吐く熱煙の中で戦雲に厚く鎖された頃、その発達史を永久に伝えた壮瞥郵便局長三松正夫氏の功績を賛美するにとどまった。その後は訪れる機会もないが向洞爺の湖岸から見た有珠の眺めも今は著しく変わっていよう。  
人も山も人間の営みも、さては牧場にうずくまっていた牛も、湖水に群る魚やザリガニの生活まで、こうして移り変わるのである。それを記録にとどめることこそ何百年の昔を探る企てにも増して必要である。  
 あかあかと夏の陽の照る峠路を越えて見下ろす紺碧の湖  
たそがれの湖に漕ぎ出て島蔭をめぐればすでに月の照る宿  
はるけくも島の彼方にほの見えし灯も早消えて眠るみずうみ*  
と昔の静かな洞爺湖を偲んでおられる。  
(木原さんの調査では、床丹温泉が洞爺湖温泉に地名変更になったのは、昭和6年らしい。また小学校名は、既に昭和5年に洞爺湖温泉小学校となっているとのことだ)  
木原さんの資料の中で、面白いなと思ったのが長輪線(現 室蘭本線)の駅名の旧新対照であった。旧名、現在の駅名と書いてみると、  
小鉾岸(おふけし)は大岸、弁辺(べんべ)は豊浦、虻田は洞爺、長流(おさる)は長和、  
黄金蘂(おこんしべ)は黄金(こがね)、輪西は東室蘭  
となっている。  
 
それにしても昭和の初めに、洞爺湖に電車を走らせて一大リゾート地を作ろうとした発想は、雄大なものだった。しかしわずか12年で廃線になってしまい、一場の夢に終わった。  
現在、2000年の火山災害の跡、金毘羅遺構の遊歩道を歩くと、この鉄道の名残に出会える。  
金毘羅山の北麓の遊歩道近くに、2つのコンクリート製の橋脚が残っている。洞爺湖電気鉄道の軌道が下を通る道路をまたぐ跨線橋の台となっていたものである。  
昭和16年の廃線後レールは取り払われたが、この橋脚は残った。1977年の有珠山噴火やその後の泥流被害、2000年の金毘羅山麓での噴火や熱泥流被害などが近辺をみまったが、この遺物は幸いなことに無事に残ってくれて、往時の鉄道のことを語っている。  
 
明治の末に洞爺湖に四国の金毘羅宮を持ってきて一大門前町を築こうと発想した秋山宥猛(あきやま ゆうもう)がいた。そして昭和の初めには、電気鉄道を敷いて一大リゾート地を開発しようとした板谷順助がいた。この二人が洞爺湖の魅力を世に知らしめ、大観光地を作ろうと発想した最初の人のようだ。  
(2013-12-9記) 
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プロフィール
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2007年に横浜から夫婦で移住。趣味は自然観察/山登り、そしてスケッチやエッセーを書く・・・ 
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