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[2019.08.05]
■奥尻島の旅
奥尻島の海の色は青く美しかった。 
透明度が高い。岸に近いところの海を見ているとエメラルドグリーンが入った青色の海面の下に、白っぽい岩がくっきりと見える。沖に行くに従い色は変化して青が濃くなっていく。 
奥尻の山は緑濃かった。標高360mの球島山(たましまやま)は360度のパノラマ風景が広がる。ハマナスの赤い花が緑の山の上で迎えてくれた。 



奥尻島観光協会の資料や調査によると、 
奥尻島は、北海道本土の南西部渡島半島の西側海上に位置する。江差町から海上61kmにあり、周囲84kmのやや三角形状をなす離島である。 
奥尻島の地質で現在確認される最も古いものは約1億年以上前のものである。これは日本列島誕生以前のアジア大陸の一部だったころのものである。その後の長い時間の間に海底火山活動があり、またプレート境界に働く圧縮力の結果この地域は隆起し続けている。 
その昔、アイヌ語では「イクシュンシリ」と呼ばれ、のちに「イクシリ」となった。「イク」は向こう、「シリ」とは島で、「向こうの島」という意味がある。 
享保5年、300年くらい前に、新井白石の著書「蝦夷志」に初めて「オクシリ」と記載されてから、この名前で呼ばれるようになった。(中略) 
海岸線は、比較的単調であるが、西海岸一帯は、変化に富んで奇岩絶壁などが多く、昭和35年に桧山道立自然公園に指定され、美しい海岸線と温泉、素朴で荒削りの風景がかもし出す多彩な観光資源に恵まれている。(後略) 
かつてこの緑豊かな島を地震と津波が襲った。 
1993年7月12日22時17分、北海道南西沖の深さ34kmを震源とするM7.8の地震が日本海地域を襲った。震源地に近い奥尻島は地震発生と同時に起きた大津波により壊滅的な被害を受けた。死者・行方不明者は198名に及び、残された島民からも平穏な生活を奪い去った。 
震源は、ユーラシアプレートと北アメリカプレートの境界のサハリンから新潟沖につながる日本海東縁変動帯にある奥尻海嶺直下である。当時奥尻島には地震計が設置されてなかったため、震度は正確には分からないが推定震度6(烈震)で、その後の気象庁による倒壊家屋の調査などで、震度7(当時)だった可能性もあるとのことだ。津波の到達が早かった。西海岸では、地震後3分くらいで第一波が到達している。また津波の高さは、直撃を受けた島の西側の藻内地区で最大遡行高さ31.7mを記録した。被害が最も大きかったのは、島の南部で、住民が多く住んでいた青苗地区であった。三方を海で囲まれたこの地区では、震源より直接到達した波が、市街地でも高さ6.7mに達したほか、島を回り込んだ波、北海道本土で反射した波など複数方向からの津波の襲来を受けた。 
この地震の10年前、1983年に日本海中部地震が発生した。このときの地震による津波では奥尻島でも被害が発生した。2名の方が犠牲になられたと聞いたが、記憶が不確かである。 
10年前のこの津波を経験された方は、そのときよりもはるかに強い地震であったことから、津波を予想した。その判断ですぐに避難をして助かった方がいらっしゃる。一方津波到達まで10年前と同じく10数分はあるだろうということで、車で避難された方の中には渋滞にはまり、津波に巻き込まれ方もいらっしゃる。 
7月12日の夜というと、漁師さんがイカ釣り漁に出ている時期であった。このため漁師のご主人は船の上で助かったが、奥さんや子供たち、おじいさん、おばあさんなど家に残っていた方が多く亡くなったということもあった。 
津波の後に、倒れた灯油タンクやプロパンガスタンクに何らかの火がついて火災が発生した。島にある2台の消防車も、地震の倒壊家屋や津波に襲われた道路などに阻まれて、十分な消火活動は出来なかった。消防団の方たちは最後には延焼を食い止めるために、家屋を壊した。そのような懸命な活動もあったが、奥尻島は壊滅的な被害を受けた。 
その後、島民の皆さんの懸命の努力と全国の人びとからの物心両面の応援により、島の復興は進み、震災から5年目の1998年3月に完全復興宣言を出した。 
地震の慰霊碑「時空翔(じくうしょう)」には、震源地の方向を向く鎮魂のモニュメント、平成天皇の御製、鎮魂の詩などの石碑がある。 
その中で奥尻出身の詩人 麻生直子さんの詩は、ここを訪れた多くの人の胸に響いてきた。 
地震や津波で命を落とされた方への鎮魂であり、残された方々がその重い思いを背負いながらこれからの生活を再建されていくこと、また遠い昔にこの奥尻で生活を始めた祖先から営々と引き継がれてきた島の生活を未来にもつなげていこうという思いなどが、平明な言葉でつづられている。 
下記に紹介させていただく。 
 
「憶えていてください」 
麻生 直子 
 
憶えていてください 
青い潮風の海辺の町で 
すこやかな心とからだをもった人びとが 
ていねいに生きていた一日一日を 
 
一瞬の大地の鳴動が 
破壊つくしたあの夜の津波の怖ろしさ 
連れ去られた家族たち 
かなしいその光景に失意して 
未来を拒んだりしないでください 
 
あなたの一日一日を 
このままでは終わらせないでください 
はるかな海の 
月夜の眠りに還っていった人びとのために 
 
最初の人が板切れとともにこの磯に立ち 
銀色の魚を釣り 
野菜や穀物を育て 
ひと組の男女が結ばれ 
父となり母となり 
ながい寒さから幼な子をまもり 
働くことをいとわずに築いてきた村や町 
くらしの糧をわけあってきた 
海辺の家族の 
その歳月を置き捨てずにいてください 
 
生き残った人びとの 
心に移り住んでいく魂たちの祈り 
無数の人びとの温かな声援 
憶えていてくださいあなたも 
 
今回の旅は、江差から奥尻港まで2時間10分のフェリーで始まった。 
奥尻島へのフェリー便は、以前はせたな発もあり、江差発と2本だったが、今年せたな 
便が廃止され1本となった。札幌や伊達方面からはせたな港の方が近いし、また海上距離もせたなからの方が近く、乗船時間も短い。なくなったのは残念だ。 
奥尻港に着いて、レンタカーに分乗して島内巡りが始まった。初めに奥尻の象徴である鍋釣岩(なべつるいわ)を訪れる。 
 
奥尻港近くにある鍋釣岩は、高さ約19.5m、周囲は約101mのドーナツ状の奇岩である。岩の名称は、鉄鍋の弓型の取ってである弦(つる)に形状が似ていることに由来する。岩の岸側の頂部には、「枝や葉にとげがあり蛇も登れない」ことに由来するヒロハヘビノボラズという落葉低木が明治時代前から根付いており、この植物は小さな花と赤い実をつける。ということは、この植物は少なくとも150年以上、この岩と共に奥尻の歴史を見つめてきたことになる。雨風、吹雪、波浪にも耐えて、奥尻の港を見守っていたことになる。明治末期頃の鍋釣岩の絵ハガキでも確かにこの植物らしいものが写っている。(下の写真) 
 
この後ウニ丸公園、青苗漁港に作られた望海橋と呼ばれる高さ6mの人工地盤を見学した。 
ここは2000年に建設された漁港避難施設で、2300人が避難できる広場である。 
その後、時空翔といわれる慰霊施設、奥尻島津波館(島の歴史や震災の被害から復興までの記録を伝える)に入り、ガイドの方から展示物の説明を受けた。 
西海岸は崖が海岸にせまり、奇岩が多くある場所である。そこから少し山側に入ったところに、奥尻ワインの製造・販売所がある。ここでワインを試飲して、購入する。ここでは「奥尻の水」というミネラルウォーターが販売されていた。あとで知ったことだが、奥尻にはブナの原生林があり、そこで育まれた水が豊かで、島の水をまかなっているとのことだ。 
 
今回わたしが最も気に入った景観は、球島山展望台からのものだった。(初めの挿絵の風景)360mの高台からは、奥尻の緑の山々と日本海の青い海が望めた。展望台までの階段を上っていくと、吹く風も気持ちよく、ウグイスの鳴き声が迎えてくれた。奥尻の最高峰神威山へ連なる穏やかな丘陵状の緑濃い山々、青空と青い海、ハマナスの赤い花など、開放的な風景が一望できるところが素晴らしい。遠く奥尻港の方を望むと、鍋釣岩が小さく見える。翌日ももう一度この場所に連れて行ってもらい、奥尻の大きく伸び伸びとした山と海の風景を楽しませてもらった。 
 
奥尻島にはいつごろから人々が住み始めたのだろう。資料からこの島の人々の歴史を垣間見てみると、 
紀元前6000年ころ、青苗遺跡で貝殻文土器、石組炉などが作られる。 
紀元前2500年、縄文時代後期には砥石(現奥尻空港滑走路)周辺に集団墓地と思われる穴が約600基作られる。 
400年代後半には、オホーツク人が日本海を南下し、島に到達する。 
660年、斉明天皇6年には、阿倍比羅夫が日本海を北征し、「渡嶋」に到達。付近の「弊賂弁嶋」(奥尻島のことか?)にて粛慎(オホーツク人のことか?)を撃つ。 
946年には中国と北朝鮮国境の白頭山が噴火して、この火山灰が奥尻にも到達している。 
1640年には渡島半島の駒ケ岳が噴火して、奥尻にも降灰があった。 
1741年には松前大島が噴火して、火山灰の降灰。津波発生で桧山沿岸に被害が多数出るが、奥尻での被害状況は不明。 
1790年には菅江真澄が江差を訪れたときに、奥尻島を望んだことが「蝦夷喧辞弁」に表されている。 
1845年には松浦武四郎が東蝦夷地探査の途中に、奥尻島を調査している。 
1868年(明治元年)には奥尻島の永住人が戸数11戸、男女合計46人と記録されている。 
以下略。 
遠く縄文の時代から、この島に渡った人々の生活の跡が残る。網走のモヨロ遺跡に残るオホーツク人といわれる人々の一派が奥尻島にも渡ってきていると記述がある。その後の蝦夷地で生活していく人々に多様な文化が重なっていることを感じさせる。 
余談になるが、「オホーツク街道」司馬遼太郎によると、 
*モヨロ貝塚から出土した一つの土器表面にこびりついていた黒いススが化学分析されたことがある。そのとき、酒石酸がみつかった。酒石酸はブドウ酒を醸造するとき、副産物としてできるものであるから、かれらが山ブドウを醸造していたことはまぎれもない。(中略)いずれにしても、モヨロの“オホーツク人”がワインを飲んでいたことだけはたしかである* 
もしも奥尻島に渡ったオホーツク人の一派も、山ブドウを醸してワインを作っていたとしたら、いまの奥尻ワインの原型がはるか昔にあるのだが・・・これは妄想である。 
 
明治時代の中期には稲作にチャレンジして成功している。初めて稲作を試みたのは、能登(石川県)出身の宇苗長造で、明治20年にワサビ谷地で行った。その後明治29年には、ワサビ谷地、蓬谷地などで5反以上の水田開発に成功した。足かけ9年におよぶ努力の結果、奥尻島における稲作経営の可能性が証明され、現在のようにワサビ谷地、冨里、米岡地区に水田風景が広がった。いまでは島でとれたお米から醸造した「奥尻」という日本酒が販売されている。わたしたちも夕食のときに島の美味といっしょにいただいたが、さらっとして口当たりのよいお酒だった。 
 
どうしても大地震の記憶が残る島だが、現在の夏の平穏な海を見ると、「奥尻ブルー」ともいうべき緑が入った透明感のある青い海は穏やかだし、美しい。観光客としてきて、島の美味しい海のもの、山のもの、島のお米で作られた奥尻のお酒をいただいた。今回民宿のご主人と奥さんから、朝食のあとに小一時間、大地震・津波災害のときの話を伺った。島の方から災害時のお話を聞いて、どこかでその話を自分なりに伝えていくことも意味あることかと思う。 
 
◆参考資料など 
・「島百景」写真でたどる奥尻町史 2017-3-31発行 
・Wikipedia 「奥尻島」、「北海道南西沖地震」、「鍋釣岩」 
・「奥尻島」宇苗満著 本の泉社 
・「オホーツク街道」司馬遼太郎 
・ジオパーク友の会のメンバーと奥尻島を旅したのは、2019年7月6,7日である。 
(2019-7-15記) 
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プロフィール
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2007年に横浜から夫婦で移住。趣味は自然観察/山登り、そしてスケッチやエッセーを書く・・・ 
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