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[2017.12.23]
■会津の旅
この秋、会津の方を旅した。  
会津若松市は、車で通過しただけだったが、その南の方の大内宿(おおうちじゅく:下郷町の大内宿観光協会の表記に従う。別に“おおちじゅく”と読ます資料もあり)を訪れた。  
かやぶき屋根の民家が多く残るところで、江戸時代の宿場町とはこのような風景だったのかと思い描かせる。現代では、おみやげを売る店やそばを食べさせる店が並ぶ観光地になっている。少し傾斜地の両側にこれらの店が数十軒並び、道路端の両側にはきれいな水路がある。昔はこの水路で野菜を洗ったりしていたのだろうか。  



わたしたちが訪れた日は好天で観光客も多く、人気の“ねぎそば”屋で食べるのに、小一時間待たねばならなかった。辛みの一本ねぎを時々かじりながら、そばをいただく。所変わるといろいろな食べ物があるものだ。  
さて、大内宿である。江戸時代には、この宿のある街道は会津藩の廻米を江戸に送るための道で、また参勤交代のルートとしても使われた。このまま南下していくと日光を経て江戸に至るので「日光街道」とも呼ばれた。ただし会津若松からの距離が近いためか、宿泊はせず、昼食をとるための宿場町となった。  
以下「街道をゆく 会津のみち」司馬遼太郎から引用させていただくと、  
*江戸時代のこの宿場のくらしは、半宿半農だったことが、明治後に幸いした。一戸あたり平均二反歩ほどの水田と、ぜんたいで七十町歩もある畑が、ひとびとのくらしをささえた。明治後、宿場はすたれた。とくに明治のある時期に他に道路ができたため、大内宿は山間で孤立してしまった。それでもなお村の旧観がのこったというのは、奇跡にちかい。  
そのことについて、宮本さんは、この宿のひとびとをたたえている。  
・・・新しい街道からはずれると、多くは生活にこまって、かえって家などたちくされになってゆくものだが、この村の人たちはよく稼いで自分たちの村を守った。そして長い間火事も出さなかった。村人の結束もかたい上に、特別に大きな財産家もない。村人をだしぬいて自分だけはよい生活をしようとするような人もいなかったことが、このような村をのこしたのであろう。(『宮本常一著作集』18)*  
 
今の“会津若松”という名を付けた人は、豊臣時代の武将蒲生氏郷(がもう うじさと)であった。氏郷がこの地に、漆器その他上方文化を移植したことがいまの会津工芸の基になったのだろう。次にこの地を治めたのは越後から入封された上杉景勝であった。  
秀吉の最晩年、景勝は父祖の地の越後をとりあげられ、かわりに会津を中心に百二十万石という大領をもらった。しかし関ヶ原の戦以降に家康に召し上げられて、米沢に移った。  
江戸時代に入ると、二代将軍秀忠の庶子である保科正之(ほしな まさゆき)がこの地を治めることになる。以後会津松平家が幕末まで続くことになる。正之は熱心な朱子学と神道の徒であり、十五か条の家訓を定めて、以後脈々と続く会津の“篤実”の家風を築いた人といえる。第一条に「会津藩たるは将軍家を守護すべき存在であり、藩主が裏切るようなことがあれば家臣は従ってはならない」と徳川宗家への絶対的な忠誠を掲げている。二百数十年後の幕末に藩主になった松平容保(まつだいら かたもり)は、激動の京都の治安維持組織である京都守護職を引き受けざるを得なかった。正之の家訓が彼を縛ったともいえる。容保の配下に入った新選組が華々しく活躍して、長州の過激人を成敗した。この長州人の恨みが戊辰戦争では、会津藩に苛烈にあたった。そのことでわれわれに一番強く印象付けられているのは、鶴ヶ城の落城や白虎隊の悲劇である。会津若松での市街戦では会津藩は負けたが、奥会津各地の戦いでは善戦して、決して負けてはいなかった、ということを先日JR東日本車内誌「会津軍、奥会津で奮闘す!」という記事を読んで知った。  
新政府軍は、会津と隣国を結ぶいくつもの峠から侵入し、戦火は会津藩領全域に及んだといわれる。ひときわ山深い奥会津は、一時占領されたものの、その地形を生かしてゲリラ戦を展開して、新政府軍を追い散らし、戦いは会津軍優勢になったこともあった。越後長岡藩は、会津の西にありいっしょに新政府軍と戦った盟友である。長岡藩家老の河合継之助(かわい つぐのすけ)は長岡での市街戦の後、会津の只見にのがれて、ここが終焉の地となった。只見町の高台に「河合継之助記念館」があり、「継之助は、会津のために戦ってくれた英雄。只見の人は皆、そう受け止めていると思う」と地元の人は語る。  
大内宿のそばに大内峠があり、ここも激戦地だった。両軍合わせて40人の戦死者を出しているが、その中に会津軍の笹沼金吾の名前もある。彼は一人で、大内近くの水車小屋に潜み、通り過ぎた新政府軍の後方から斬りかかって12人もの敵兵を討ち取ったといわれている。勇猛果敢な金吾には、新政府軍数人が斬り伏せにかからなければ太刀打ちできなかった。彼の墓は、現在宿場の裏手の寺に葬られている。  
現在はかやぶき屋根が続く平和な風景の中にも、戦禍の歴史があった。  
話はぐっと時代を遡る。  
九世紀という古い時代に、会津には徳一(とくいつ)(生没年不詳)という人物がいた。  
この僧侶のことについては、同じく「街道をゆく 会津のみち」司馬遼太郎の中に詳しいので、長くなるが引用させていただく。  
*徳一は慧日寺(えにちじ)という大規模な寺を興し、おおぜいの門弟をとりたてた。中世のヨーロッパ風にいえば、慧日寺は、大学だった。それも私学だったのである。  
当時、寺といえばほとんどが官寺だった。まれに大貴族や大氏族による私寺があったが、慧日寺の場合、その財政上の負担者は、会津地方の農民たちだったように思える。  
九世紀という、遠い時代の会津に、慧日寺のような巨大な私寺が存在したというだけでも、愉快ではないか。  
その上、徳一が尋常な学僧ではなかった。  
“会津徳一”  
などとよばれて、平安初期の仏教界で畏れられる存在だった。  
さらには、日本史上、最大の論争家でもあった。  
その点、論争べたな日本人のなかで、かれは奇跡のような存在として歴史のなかで光芒を放ちつづけている。その論争の中身もわかっている。相手も、超弩級の大物である。最澄(767〜822)と空海(774〜835)である。  
最澄はすでに、宮廷を保護者とする新仏教の最大の大立者であった。論争を避けたり、無視したりすることもできたが、かれは正面からうけた。  
最澄がその論争に負けたとは決していえない。ただ論争があまりにもはげしく、それに徳一が執拗でもあったために、最澄の五十代の健康がむしばまれ、死の遠因をつくったのではないかとさえ思える。  
むろん、後世にとって、大いなる幸いでもあった。この論争によって最澄の著作活動がふえたからである。  
空海の場合、徳一の論鋒をたくみにかわし、むしろ徳一を理解者にしてしまったところがあり、このあたりにも、最澄の篤実さにくらべ、空海のしたたかさがうかがえる。  
重要なことは、それらの論争が、奥州と京という長大な距離をおいておこなわれたことである。はるかな山河を、文章をたずさえた使者がゆききしたことをおもうと、この論争は、舞台装置までが大きい。*  
*奈良朝や平安朝の都びとにとって、文明という太陽は、平城京や平安京という都だけに照っていた。  
田舎のことを鄙(ひな)といった。ひなということばに当てられる漢字は夷(ひな)もあり、戎夷(ひな)もあり、その字のように草深く野蛮で、文化どころか、言語さえ通じない世界だとおもわれていた。  
ところが、徳一が存在した。  
奈良朝末・平安初期の会津に徳一という日本最高の法相(ほっそう)学者がいたというふしぎさを、たれもが十分には説明できない。  
 
ついでながら江戸時代となると、地方の時代だった。日本の学問水準は地方か、地方出身者たちがささえ、首都のひとである江戸人はむしろ学問を野暮とする風さえあった。  
そういう江戸期―とくに後期―二百数十藩のなかで、会津藩の教育水準はおそらく肥前佐賀の鍋島藩とともに、日本第一等であったかもしれない。  
徳一の時代は、ちがう。かれがいた八、九世紀の鄙は草深かったが、会津だけはかれ一人によって灯台のようにはるかな都を照射していた。  
ともかくもこの知的豪傑が、ただ一人で旧仏教(奈良仏教)を代表し、新仏教(平安仏教)の最澄と論戦し、最澄をくるしめつづけた。(中略)  
ただ十二年にもおよんだこの両人の論戦が、九世紀初頭という上代におこなわれたことにおどろかされる。さらには、規模と精密さにおいてこれ以上の論争はその後にもなく、あるいは、当時の中国・朝鮮やインドでもまれだったのではないか。(中略)  
なにが論争のもとだったかというと、仏性(ぶっしょう)のことなのである。  
仏性とは、“仏になりうる性質”のことで、最澄がかかげた大乗仏教の大前提は、万人が仏性をもつという。  
「冗談じゃない、人間には出来・不出来があるんだ」  
というのが、古い奈良仏教(とくに法相宗や唯識宗)の立場だった。  
むろん、すべての人に仏性があるというのは最澄の独創ではない。  
『大乗涅槃経(だいじょうねはんきょう)』に“一切衆生(いっさいしゅじょう)ハ悉(ことごと)ク仏性ヲ有ス”とあり、さらには最澄が、その天台教学(天台宗)の根本経典とした『法華経』もそういう考えを基調としている。(後略)*  
*旧仏教は解脱中心主義で、後世の大乗仏教のように、救われるという思想に乏しかった。つまりは天才的な人のみが悟り(成仏)の域に達しうるという選別主義だった。  
最澄は、やがて天台宗にゆきついた。天台宗は、釈迦以後の仏教思想の破片群を、救いの思想という基準のもとに取捨選択して一大体系をなしたものである。  
最澄による新仏教の出現は、南都(奈良)六大寺に拠る旧仏教を一挙に過去のものにした。  
南都の学僧たちは衝撃をうけ、それ以上に反発した。  
「ばかな」  
とかれらはいった。たれもが仏性をもつとしたら、なにを苦しんで修学をし、修行をするか、さらには人間には歴然と努力する者と怠ける者との区別がある、ぐうたら者にさえ仏になる性質があるとはなにごとか、ということだった。(中略)  
南都の法相宗の根拠地は、興福寺であった。藤原氏の氏寺であるとともに、日本最大の学問所でもあった。だから法相学者は藤原氏を通じて政界にも大きな力をもっていた。そこで、興福寺は、のちに太政大臣を追贈された藤原冬嗣(ふじわらのふゆつぐ、775〜826)に訴えて、論争の場を興福寺に設け、最澄をよんだ。討論会場には冬嗣その人を立会人とするというものものしさだった。最澄はただ弟子をひとりつれて乗りこみ、なみいる学僧を相手に、ことごとく論破した。これが弘仁4年(813)最澄の四十七歳のときで、かれにとって第一回の論争だった。  
翌弘仁5年、勅命によって宮中で各宗の学僧と対論して勝ち、さらには弘仁6年、宮廷人の和気氏が立ちあって、奈良の大安寺でおおぜいの学僧をむこうにまわして激論し、大いに勝った。  
南都はみじめだった。ついに切札として、はるかな会津の徳一をうごかして、最澄に挑戦させた。これによってみても、徳一が旧仏教第一等の人であったことがわかる。*  
そのような高僧が平安初期の会津にはいた。“徳一菩薩”ともよばれ、いまでも崇拝されている。わたしたちが会津の道の駅を訪れたときにも“徳一菩薩”とかかれたポスターが道の駅に貼られていた。何かイベントでもあったか。数えてみると、徳一が最澄と論争を開始して1200年くらいが経つ。  
いずれにしても、平安初期に会津の地に慧日寺のような大きな寺ができたことは、当時のこの地はそれなりに豊かな土地であったことがうかがえる。会津には稲作農耕が比較的早くから入って定着していたのだろう。  
大同2年(807)徳一が会津に慧日寺を開基した前年に、会津磐梯山は噴火を記録している。これは偶然だったのだろうか。荒さぶれる山を鎮めるために磐梯山の山麓に寺を興したのだろうか。分からない。  
 
◆参考資料  
・「街道をゆく 会津のみち」司馬遼太郎著  
・JR東日本車内誌「トランヴェール」2017年11月号「会津軍、奥会津で奮闘す!」  
(2017-12-15記) 
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2007年に横浜から夫婦で移住。趣味は自然観察/山登り、そしてスケッチやエッセーを書く・・・ 
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