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[2017.09.17]
■三笠ジオパークの旅
三笠市のジオパークを訪れた。北海道のジオパークの仲間が一堂に会して、その土地のジオパークを知り、互いに親睦を深めるという目的で毎年違う場所で開催している。  
国道12号線沿いに三笠道の駅があるが、三笠市の中心は、そこから10kmくらい東側に入ったところにある。  



明治に入って開拓が進んだ北海道で、三笠を特徴づけることは、石炭が発見されたことから炭鉱の町としての発展、また空知集治監(刑務所)の設置が町の発展の礎にある。  
かつては石炭の産地として栄えた。また古代の地層からアンモナイトが多く発掘され、三笠市立博物館には、これらの多くのアンンモナイトが展示されている。化石やアンンモナイトのファンにとって、これらが多くとれる三笠市の幾春別(いくしゅんべつ)の地は、“聖地”と崇められている。  
三笠の町は、明治以降に幾春別川に沿って石炭が発見されて、その発掘のための設備が整えられて、搬送のための鉄道が敷かれ川沿いに横に長く発展していく。  
 
約1億年前、恐竜が陸上の王者として君臨していた頃、三笠はまだ海の底だった。そこは、たくさんのアンモナイト、モササウルスやクビナガリュウなどの大型爬虫類が生息する世界だった。そもそも1億年前は、まだ北海道ができておらず、北海道の西半分はユーラシア大陸と一体となっていて、大陸の東側の海域の海の底で砂や泥が積もった地層(蝦夷層群)が、三笠にある最も古い地層でこの層からアンモナイトなどの化石が豊富に産出している。  
アンモナイトが絶滅した約6600万年前頃には、三笠は海の底から陸上に変わった。  
その後、約5000万年前陸上になっていた現在の北海道の中央部には広大な湿地が広がっていた。この湿地に生息する植物が川底の地層(石狩層群)の中に埋もれ、高い温度と圧力で石炭になったと考えられる。北海道は国内有数の石炭産地だが、北海道の石炭が形成された地層は、約4000〜6000万年前に集中している。このことは、その頃の気候や地形が石炭のもととなる植物(メタセコイアやイチョウなど)が生育するのに適した温暖な環境だったと考えられる。1mの石炭層を得るには、10mの厚みの木々の集積が必要とされる。当時のこの地域は、豊かな森というか密林があったと想像される。  
今から約1300万年前ころから、北米プレートとユーラシアプレートのぶつかり合いは激しくなり、北海道中央部で日高山脈が上昇していく。そして北海道の東半分と西半分が合体していき、三笠あたりに分布する古い地層はこのときの合体の力で褶曲を繰り返す複雑な構造となっていった。そのため三笠では、斜めに傾いた地層や縦に並んだ地層が随所に見られる。  
 
三笠ジオパークのシンボルになっている三層のマークは、左から1億年前のアンモナイトを含む地層を灰色、5000万年前の石炭層を含む地層を黒色、そして我々の生きる現在を緑の植物で表している。植物には、5000万年前の石炭のもととなったメタセコイアが描かれている。メタセコイアは、現在も生きる「生きた化石」として知られ、過去と現在を結びつける役割をもつとのこと。いろいろな思いが込められたシンボルマークなんですね。  
 
桂沢ダムは昭和32年(1957)に完成した北海道で初めての本格的な国土交通省直轄の多目的ダムで、飲料用水、農業用水、洪水調節、水力発電などに用いられている。完成から60年経ったこのダムをかさ上げする工事が現在進行中である。現ダムの基部から補強していき、高さを約12m高くする大掛かりな工事の真っ最中であった。これにより有効貯水量が現在の1.7倍になり、治水・利水の両面で機能アップしていくと聞く。  
ダム作りの時には、コンクリート用の骨材として近くの山から岩石を供給するようだ。地産地消の考え方で、この骨材となる岩石の供給元の山のことを「原石山(げんせきやま)」と呼ぶのはこの業界での共通用語である。  
桂沢ダムの原石山も近くにあり、その掘り出している山頂部まで案内していただき、説明を受けた。削られた露頭では、地層が斜めに傾いているところが眺められた。右の方が古い地層で左に行くに従い新しい地層になる。東西に分かれていた北海道が合体してできた頃に受けた強烈な力で、本来水平の地層が立ち起こされて斜めになっている。  
ここで採掘された岩石はベルトコンベアで下の岩石加工場まで送られて、洗浄、破砕、貯蔵、濁水処理などの工程機械があり、セメント材料に供される。  
ダム本体の工事現場を上から眺めさせていただいたが、人や機械が小さく感じる巨大な建設現場である。巨大なクレーンが設置されていた。高さは札幌のテレビ塔ほどもあり、日本に11台しかない代物を、北海道のこの現場まで運んできたそうだ。  
この後、三笠山の麓にある、かつての空知集治監跡を見に行く。ちなみに三笠という地名は、明治15年(1882)に空知集治監が設置されたとき、その北側にあった山の形が奈良の三笠山に似ていたので、三笠山と呼んだことから始まった。  
空知集治監というのは、現在で云う刑務所である。わたしは、こちらで説明を受けるまで、ここにかつて空知集治監があったということを知らなかった。月形に樺戸集治監があったことは、国道275号線で月形町を通ったことがあり、また本を読んで知っていたが、三笠のことは知らなかった。明治政府は、犯罪者の刑務所を作るにあたり、海を越えた遠い北海道なら容易に逃げ出せないこと、また北海道開拓にあたり道路の開削や炭砿での労力として囚人をあてることを考えた。過ぎ去った時代のことを後から振り返ると随分理不尽なことをしたものだと思うが、その時代の雰囲気なり人々の考えは、その時代に身を置いてみないと分からないのだろう。空知集治監には、刑期10年以上の重罪犯や政治犯(自由民権運動家など)が収容され、多いときには3000人がいたと云われる。これだけ多くの囚人がいると、その食事、衣料その他日常生活に必要なあらゆるものを提供する商人、人々が必要であり、初期の三笠の町の形成につながった。  
初代典獄(刑務所長)の渡辺惟精(わたなべ これあき)(1845〜1900)は、人望があった人だった。彼は市来知村(三笠の初期の名前)戸長、警察署長、幌内坑業所長、炭砿鉄道事務所長も兼任し、道路、水道、学校、橋、病院などを次々と建設し、集治監事業に依存しない町づくりを目指し、養蚕業などの新規産業つくりにも尽力した。  
わたしたちが見学した場所には、彼が住んだと云われる官舎にあった高いレンガ煙突だけが残っていた。  
 
2日目は、森林鉄道跡の遊歩道を歩きながら、地層、植物、幾春別川の景色、文化などを説明いただいた。ガイドして下さった鈴木春夫さんは、地元で生まれ、働いてきた方でご自身が描かれた絵を交えてていねいに説明して下さった。鈴木さんは、昭和29年に役場に就職されて、初めの勤務地が幾春別支所で、ここでは戸籍係として出発された。ちょうど石炭産業が盛んで、この地区には多くの人が住みにぎやかな時代だっただろう。その後だんだんと石炭から石油にエネルギー変換が進み、石炭の需要が落ちて炭鉱の町の人口は激減していった。この町でずうっと過ごされた鈴木さんは、炭鉱町の栄枯盛衰を肌で感じられたに違いない。  
遊歩道途中のいくつかのサイトを紹介する。  
旧幾春別炭鉱錦立坑櫓(たてこうやぐら)は、深い縦穴を掘ってエレベーター式に内部の石炭を運び出す装置である。その地上部分の巨大な巻き上げ滑車と支持構造物が赤さびて残っている。(初めの挿絵)櫓の高さが約10m、地下約215mまで縦穴が穿たれている。この立坑櫓には北海道炭砿鉄道会社(北炭)の社章が掲げられている。開拓使の赤い北極星と幌内鉄道の車輪をイメージした青い円が合わさったマークとなっている。大正9年(1920)に完成したもので、現存する立坑櫓では道内で最も古いものだ。100年近く前に製造されたこの構造物は、赤茶けた鉄の枠組みをいま緑の森の中に残している。往時はこの滑車が回り、ワイヤーロープに取り付けられた台箱にたくさんの石炭を詰めて、地底から地上に運び上げていたのだろう。当時の先端技術を集めて制作されたものだろうが、石炭産業が衰退したいま、往時を偲ぶ産業遺物となっている。  
 
この遊歩道を歩いていると、覆道に入る手前の地上に「ひとまたぎで5000万年」という言葉が路上に描かれている。この地点の前後で大きく地層が変わることを意味している。手前側が約5000万年前の石炭が埋まっている地層で、そこから先は約1億年前の地層でアンモナイトが良く発見される場所である。  
普通は地層というのは連続性があり、間に入るべき5000万年分の地層が抜け落ちることはないわけだが、ここでは抜けている。これは本来あるべき5000万年分の地層が、1億年前から5000万年前の間に一度大地が陸化して、そのとき浸食を受けて削り取られたためと考えられる。そして北海道の東西がぶつかったときの巨大な力で押し曲げられて、水平であった地層が縦になってしまった。確かに一歩またぐと5000万年の時間を超える場所というキャッチフレーズは、時間とは何なのだろうと悠久の地球を感じさせてくれる。  
神泉隧道というトンネルを抜けたところに「鏡肌」という看板がある。ここは地層が動いた時の地層のずれ(断層)の場所で、断層を挟んだ両側の岩石が互いにずれてこすれ合って磨かれた光沢面があったという。いまは長い年月の風化で光沢は失われ、少しざらついていた。この近くには昔、神泉閣という旅館があって、文人の大町桂月も訪れたことがあるそうだ。層雲峡の名付け親であり、大雪山に桂月岳の名を残す。幾春別川と岩や木々のなすここの風景を見た彼は「桂沢神居古潭」と名付けた。旭川近文の神居古潭に似た風景に感じたことによる。  
若山牧水もここを訪れた。全国に歌仲間がいる彼のことだから、ここに来て歌会を催し、仲間と一杯傾けたことだろう。鈴木さんは「牧水」の名前の由来を語ってくれた。「牧」はおかあさんの名前のマキであり、「水」は大好きだった故郷宮崎県尾鈴山の渓谷の水を入れたと云われる。調べてみると牧水が桂沢を訪れたのは大正15年(1926)の北海道旅行の時だったようだ。この年の9月から55日間の北海道旅行に出かけた牧水は、11月8日に幾春別に一泊して、翌日幌内で地元の人と歌会を催した。そのときの一首が、下記のものと思われる。  
 老いゆきて かへらぬものを 父母の  
 老いゆくすがた 見守れよ子等  
この歌碑が幌内中学校にあるとのこと。  
また今回歩いた遊歩道の終点近くには、牧水の代表作の一つである歌、  
 幾山河 越えさりゆかば 寂しさの  
 果てなん国ぞ 今日も旅ゆく  
大正15年の秋 来桂記念  
として歌碑になっていた。この代表作は明治40年(1907)、牧水23歳のときに岡山から広島への旅のときに生まれた。桂沢の方々がここを訪れてくれた思い出にと、牧水の代表歌を歌碑にしたのだろう。  
余談ながら、  
この「幾山河・・・」の歌ができる2年前の明治38年に上田敏が訳詩集「海潮音」を刊行して、ドイツの詩人カール・ブッセの、  
「山のあなたの空遠く 幸いすむと人のいう・・・」  
という訳詩を紹介した。  
牧水の「幾山河・・・」の歌には、カール・ブッセのこの詩の影響もあるのかもしれない。  
余談ついでに牧水の他の代表歌として、  
 白玉の 歯にしみとほる 秋の夜の  
 酒はしづかに 飲むべかりけり  
は、今頃の季節にぴったりだと思うが、三松正夫さんも好きな歌だったようだ。三松正夫さんは書もなさる方だが、この歌を書いたものが三松正夫記念館に収められている。  
若山牧水は明治18年(1885)生まれ。三松正夫は明治21年(1888)生まれで、牧水の方が若干お兄さんだが、同世代の人といっていいだろう。旅を愛し、酒を愛し、短歌や紀行文を表した牧水を三松正夫さんは好きだったのでないかと勝手に想像した。  
以上、余談が過ぎた。(若山牧水随筆集はわたしの愛読書なもので)  
この幾春別川沿いの遊歩道は、素晴らしい道だ。高低差はほとんどなく、木々に囲まれ、川の流れを眺めながらの散策路である。対岸の岩肌には、ところどころに黒い石炭層を見ることができ、太古からの地層が立ち上がった岩壁になり、時空を超えた散歩道となっている。これからの紅葉の季節には、またいちだんと艶やかな色に染まった森となり、豊かな景色になるだろう。地球の成り立ちを教えてくれる太古の地層、そこからの贈り物でもある石炭を掘り出した産業の遺物、文人たちの思い出などが1kmくらの遊歩道に詰まっている。  
いっしょに歩いているときに話した三笠の女性の方は、  
「小学生のころ写生で幾春別川を描いたときに、水の色を黒く塗ったんですよ」  
と話された。選炭作業で川の水が黒くなっていたのだろうなと想像できた。体験した人の話だと思った。  
 
三笠の町は、交通量が多い国道12号線からは内陸の方に入っている。  
国道12号線沿いにある三笠道の駅から、三笠市内への誘導の仕掛けがあるといいなと感じた。何かタイムトンネルの入り口のような仕掛けであり、そこから三笠市内に入っていくと、今回私たちが見せていただいた、太古の地球ドラマ、近代のエネルギーを賄った石炭産業の施設・思い出、鉄道記念施設、集治監の歴史、三笠ワイナリー施設、還暦を迎えたダムのリニューアル工事現場など北海道の歴史や現在を凝縮した世界が広がっている。  
人々をそこに誘い込む誘導路が何かないものだろうか。  
 
三笠発祥の盆踊り歌 北海盆歌  
♫ ハァー北海名物(ハ ドシタドシタ) 数々コリャあれどヨー  
(ハ ソレカラドシタ)おらがナーおらが国さのコーリャ  
ヤレサー盆踊りヨー  
(ハァ エンヤーコラヤ ハァドッコイジャンジャンコーラヤ)  
で、昭和の良き時代に誘い込めないだろうか。  
 
◆参考資料など  
三笠ジオパーク ガイドブック  
三笠ジオパークを訪れたのは、2017年9月9日、10日  
(2017-9-14記) 
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2007年に横浜から夫婦で移住。趣味は自然観察/山登り、そしてスケッチやエッセーを書く・・・ 
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