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[2017.06.05]
■陸奥のこと
今年は3月に三陸ジオパークを訪れる旅を体験し、また他にも東北地方を訪れる予定があり、陸奥(むつ又は、みちのく)に関する本を読んだりしている。  
学生時代に北海道から東京に帰省するとき、青森から東北線の列車に乗った。4人掛けのボックス席に座った時、いっしょになったおじさんからウイスキーを勧められ、飲みながら話したことがあった。正直なところ、話していることの半分以上が分からなかった。言葉が分からなかったのである。今思えば津軽弁だったのかもしれない。  



南部と津軽は仲が悪いと云われる。その基は何  
だったのだろう。  
きわめて大雑把にいうと、南部藩の家来だったものが、勝手に津軽の地を乗っ取り、家を興し、しかも豊臣秀吉が天下を取ったころに、うまく立ち回って秀吉に津軽藩を認めさせてしまった。南部藩は、その後塵を拝した。またコメが国家経済の主役であったときに、津軽では比較的米作に適した土地が多かったことに比べ、いまの岩手県を中心にする南部藩の領地では米作適地が少なく、また冷害も多かった。このことが、家来がかってに独立した家を興して、しかも米作に適した土地を奪い取ってしまった「にっくき津軽衆」となって、その怨念ともいうべき思いが代々南部藩に受け継がれていった。  
とても大雑把な云い方だが、どうもそんな歴史や気分があるようだ。現代では、もうそんな気分は薄らいでいるのだろうか。三陸の旅の時のバスガイドさんの話では、南部弁と津軽弁は異なることも多く、今でもお互いに分からない言葉があるようだ。  
歴史に“if”はないのだが、もし“if”の話ができるのならば、以下のような話も成り立つ。  
弥生時代に南方から入ってきた稲作というものは、それまでの狩猟採集生活に比べ、作付面積の割に多くの人を養うことができた。そのことは日本の国土の南から北に稲作がどんどんと伝播していく素地であった。しかし、陸奥のあたりはもともと冷涼な気候で、この南方の植物である稲の栽培には不適な土地であった。  
平安時代に桓武天皇は、坂上田村麻呂を派遣して陸奥の国を鎮撫せしめようとした。ありようは、稲作文化の朝廷の権威をもって狩猟採集生活民を鎮撫しようとした。  
結局、東北の歴史はこの稲作文化が不適な土地に、稲作がいいのだと押し付けられてきた歴史であり、特に南部の農民は冷害との闘いに大変な苦労を強いられた。  
明治後百年の間にも十数度の冷害凶作の年があったが、江戸期は各藩の自給自足が原則であったためと農業改良の不十分なためにこの冷害がはなはだしく、ほとんど数年に一度おこり、餓死者が出た。  
もし、明治に入って西欧の国々の、例えば気候の似るデンマークあたりの牧畜を主体とする生産様式を取り入れていたならば、もっと蜜と乳の滴る風景が出来上がっていたかもしれない。明治維新がなり、新国家建設のグランドデザインの中で、その地勢や気候に合わせた思い切った地方の設計が出来ていれば、また違った世界があったのかもしれない。  
明治に入っても東北の開発が進まなかった要因には、明治政府を担った官軍側の意識が、佐幕派だった東北の面倒などみるものかというところにもあったかもしれない。あるいは現在でも、潜在意識の中にこのような風潮があるのかもしれない。  
先日も何某とかいう馬鹿な復興大臣が、  
「(東日本大震災の被害を評して)東北地方だからこの程度の被害で済んだ。もし首都圏で起きていたら甚大な額になった云々」  
などと被害地の人々の心を逆なでするような、無思慮でアホな発言をしていた。東北蔑視、地方蔑視、都会優位ともとれる意識が垣間見える。ちょっと飛躍しすぎたかもしれない。  
 
司馬遼太郎「街道をゆく」陸奥編では、次のような一節がある。  
*「白川以北、一山百文」  
と云ったのは、戊辰戦争を戦って会津城を攻め落とした長州軍の士官のひとりであったのだろう。長州人は幕末、京の革命政界を動かしていたころ、京都守護職という幕府の治安警察を担当した会津藩とその支配下の新選組のためにさんざんいじめられ、元治元年の蛤御門の戦いに市街戦を演じて京を追いおとされた。その怨恨が、  
「東北地方の面倒など見てやるものか」  
という意味を込めたという歴史的放言になったのであろう。  
確かに明治政府は、東北を飛び越えて北海道の開発に着手した。その北海道の開発も道半ばで放り出してしまったが。*  
ところで、人材という点では、以下のような話もある。  
*南部人から、大正期に入った以後、三人の総理大臣を出した。  
原敬、斎藤実(水沢藩だが岩手県に入る)、米内光政(よない みつまさ)である。  
原敬、斎藤実、米内光政というのは、共通点がきわめて濃厚である。容姿が日本的な矮小さを持たず堂々としていたこと、物の考え方がいずれも開明的で、同時代の水準からみていわばスマートであったこと。その反面、平民宰相とまでいわれた原敬には維新の官軍に対する激越な反感という土俗性があり、ことそのことになると*相馬大作的情念をもっていたこと。斎藤実には時代がくだるせいか、さすがにそういうものは見られないが、原敬的ないわば窓の多い開かれた思考法は斎藤にも共通し、かれの朝鮮総督時代をみると、その政治は歴代の総督のなかでぬきんでて明朗で、朝鮮人に対する基本的偏見がないばかりか、極論すればかれは朝鮮人の公僕になろうとさえしたのではないかと思わせるにおいがあったこと。この両人はそろってテロリズムに倒れたことでも共通している。*  
*相馬大作 南部藩士であり、文政4年(1821年)に参勤交代で江戸からの帰途の津軽藩主 津軽寧親(やすちか)を暗殺すべく襲った首謀者である。暗殺は未遂に終わる。彼は狂人ではなく学問もできたが、津軽への激越な思いをもっていた。初代津軽藩主 津軽為信の時代から200年以上が経過してなお、南部の津軽への恨みの念が強かった事件として記憶されている。  
 
原敬には若い頃に「司法省法学校 退校事件」という体験がある。  
明治9年(1876年)原敬ら司法省法学校(東京大学法学部の前身)生徒は、寮の料理賄いへの不満を抱き、薩摩出身の校長 上村長を排斥しようと所謂「賄征伐(まかないせいばつ)」事件を起こす。背景には薩摩出身の校長の横暴に対する反感があったようだ。  
このときのストライキで、原敬、陸羯南(くが かつなん)、福本日南、国分青崖、加藤忠恒らを含めて全部で16人が退校処分になった。  
司馬さんによると、  
不思議なことに、退学組の方が、明治大正史にその存在をとどめた。  
福本日南をのぞいて日本の在野史学は論ぜられないし、国分青崖をのぞいて明治大正の漢詩は論ぜられず、陸羯南をのぞいて明治の言論界は論ぜられず、のちに平民宰相といわれた原敬をのぞいて近代日本の政治は論ぜられないであろう。  
原敬 南部藩、陸羯南 弘前藩、国分青崖 仙台藩と東北諸藩の出身者も多い。当時東北人の薩長への反感は強かった。  
のちに原敬は前述の歴史的放言の一語をとり、自らを「一山」と号したが、南部出身の原の薩長閥への気概がこもっているとみるべきだろう。  
斎藤実については、語るべき資料も持っていないので省略させてもらい、米内光政である。  
日本海軍の提督であり、山本五十六らと共に最後まで日米開戦には反対であった。戦後、阿川弘之が日本海軍の三提督を小説にした。「山本五十六」、「米内光政」、「井上成美」であり、この中で三人の提督をよく表した。この小説の影響が大きかったのか、後に「太平洋戦争では、陸軍悪玉、海軍善玉」説が云われる基になったともいわれる。もっとも半藤一利さんに云わせれば、「そんなことはないですね。海軍の中でも艦隊派が牛耳るようになって、日独伊三国同盟の推進、アメリカとの開戦もやむなしに海軍もなびいていってますからね」となる。  
太平洋戦争中の米内内閣は、陸軍の横やりで辞職に追いやられたが、終戦をまとめた鈴木内閣では、米内は海軍大臣として終戦に尽力した。昭和20年8月の原爆投下・ソ連参戦以降、米内はポツダム宣言受諾による戦争終結を東郷外相とともに強力に主張する。受諾に反対し本土決戦を主張する阿南陸相と閣議・最高戦争指導会議で激論を展開した。  
「戦局は依然として互角である」と強がりを云う阿南に対し、  
「陸相は互角と云うが、ブーゲンビル、サイパン、レイテ、硫黄島、沖縄、みんな明らかに我が方は負けている。個々の戦いで武勇談はあるかもしれないが、それは勝敗とは別の問題である」と米内は云い返した。さらに、  
「戦闘には負けているかもしれないが、戦争そのものに負けたとはいえない。陸軍と海軍では感覚が違う」と再反論する阿南に対し米内は,  
「あなたが何と云おうと日本は戦争に負けている」と云い、両者の話に結着はつかなかった、という。(この項Wikipedia米内光政から引用)  
 
視点を変えると、国際連盟事務次長を務めた新渡戸稲造も南部の出身である。  
盛岡藩新渡戸十次郎の三男として文久2年(1862年)に陸奥国岩手郡(現在の盛岡市)に生まれる。祖父伝と父十次郎は力を合わせて三本木原三千石開墾を成功させる。少年の頃、明治天皇が巡行の際に新渡戸家で休息されたとき、「父祖伝来の生業を継ぎ、農業に勤しむように」とのお言葉を賜ったことが、後の農政を志すことにつながったという。  
新渡戸の逸話はいろいろあるが、以下は彼が第一高等学校の校長になった時の話である。  
新渡戸が校長を引き受けた頃の一高は、東洋豪傑風、バンカラ風、寄宿舎への籠城主義の校風だった。校長になるとき、新渡戸は籠城主義について考察して、「籠城主義とソシャリティー」という一文で以下の批判を加えた。  
「籠城主義は、ほかの世界を知らないから、高慢心を起こしやすい。ややもすると、単調となり、向上進歩が遅れがちである。だから、団体の秩序を乱さない限り、なるべく異分子の収容もはかり、自分たちと異なる主張するものがあれば、その是非を研究することなしに、排斥するようなことをしてはいけない。ソシャリティーは要するに『長者に交われ』である。心と心、人と人との接触は、これをおいて、ほかに方法があるはずがない。」  
(この項、「日米のかけ橋 新渡戸稲造物語」堀内正巳著より引用)  
新渡戸とは台湾総督府での接点をもつ後藤新平も陸奥国の出身である。  
安政4年(1857年)に陸奥国胆沢郡(現:岩手県奥州市)に生まれ、17歳で須賀川医学校、後愛知県医学校(現・名古屋大学医学部)に進み医者となる。この頃、岐阜で遊説中に暴漢に刺され負傷した板垣退助を診察している。  
後に児玉源太郎に請われ台湾総督府民生局長として、台湾の経済改革とインフラ建設に力を発揮した。ここでは同郷の新渡戸稲造を招聘して、サトウキビやサツマイモの普及と改良に大きな成果を残さしめた。  
関東大震災後、帝都復興院の総裁についた後藤は、今の東京の骨格となる街造りにリーダーシップを発揮した人として歴史に残る。短時日の中での復興に情熱と力を注いだ。今回の東日本大震災復興でも、後藤のようにグランドデザインを描けて、情熱と力のあるリーダーはいないものか。あちこち飛びまくりの陸奥国談議になってしまった。  
(2017-5-10記) 
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2007年に横浜から夫婦で移住。趣味は自然観察/山登り、そしてスケッチやエッセーを書く・・・ 
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