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[2017.03.09]
■三陸ジオパークの旅
ジオパーク友の会では三陸ジオパークの方々との交流を図るために、岩手県宮古市を訪ねる旅を実施した。(2017年3月3日〜5日) 
行程は、苫小牧から八戸へフェリーを往復利用して、1泊3日(一日は船中泊)の旅であった。八戸からはバスで蕪島、久慈の琥珀博物館、北山崎の断崖の景観、普代村水門、普代―田老間は三陸鉄道のこたつ列車、田老では東日本震災の跡地、たろう観光ホテルなどをガイドさんに説明していただいた。そして八戸に戻る一泊の旅であった。 



久慈の琥珀博物館は見どころいっぱいのところであった。琥珀は太古に樹木の樹液が固まってできたもので、云ってみれば樹木のかさぶたみたいなものだそうだ。世界的に有名な琥珀の産地は、バルト海沿岸、ドミニカ、メキシコ、そして日本の久慈地方であり、久慈の琥珀が約8500万年前の恐竜が活躍していた時代のもので最も古いといわれる。ここは時間があればもっといろいろと知りたい場所であった。 
田野畑村の北山崎という200mの断崖が海と交わる風景は、三陸のもっともスケールの大きさを感じるものであるかもしれない。第2展望台までの363段の階段を下りていく途中からも急峻な遠くまで続く崖、海に林立する尖った岩、波に穿たれた海食洞、そして白い波をあげる青い海の光景は迫力がある。 
青森県八戸市から岩手県宮古市田老地区までを往復するバスの旅であった。(途中往路は普代から田老までは三陸鉄道に乗車)バスガイドさんが通過する景勝地や町、歴史、文化や特産品、この地方の方言や歌などを紹介してくれて、とても勉強になるバスの一日旅であった。 
野田村の玉川地区に伝わる西行の話をしてくれた。野田村は久慈市と普代村の間の海岸沿いの景勝の地である。 
西行は平泉の藤原氏を二回訪ねているが、東大寺大仏殿の建て直しの勧進で訪れたということなので、おそらく2回目の文治2年(1186年)のことだったのだろう。平泉から足を延ばして、当時歌枕の地として名高かった「陸奥の野田の玉川」を訪ねたのだろう。玉川海岸の美しさに魅せられ、しばし高台に草庵を結んで日を過ごした。毎日のように海女の「えいほう」という女性が海に潜って漁をする姿を見ていた。西行は、「毎日海で漁をするえいほうでも寄せ来る波の数の多さは分かるまい」と一計を案じ詠んだ。 
 えいほうは毎日海に来ているが 
 寄せ来る波の数は知るまい 
それを聞いたえいほうはすかさず、 
 西行は諸国修業はいたせども 
 空なる星の数は知るまい 
と返したという。 
ここからはまったくの当て推量になるが、 
さすがの西行も鄙にもこのようにすぐに歌で返答する女性のあることを知って驚き、また己の所業を恥じたのだろう。このことは東北のこの地にも藤原氏の栄華を極めた文化の浸透があり、歌を詠んだりすることが日常行われていたことを推察させる。また現在「北限の海女」といわれる久慈市と隣り合わせる野田の地区も古くから海女漁が行われていたことが偲ばれる。 
また、西行よりも大先輩にあたる能因法師はこの地を訪れたときに、 
 夕されば汐風こして陸奥の 
野田の玉川ちどりなくなり 
と詠んでいるので、能因法師を慕って西行はこの地を訪れているのかもしれない。 
ここでの「陸奥」は「むつ」と読むと字足らずになるので、「みちのく」とでも読むのであろうか?? 
西行からさらに500年下って江戸時代の俳人松尾芭蕉は、能因法師や西行を慕い、彼らの足跡をたどる「奥の細道」の旅に出る。 
 
北緯40度の普代村では普代水門をバスの中から眺めた。 
2011年3月11日の東日本震災のときには、高さ15.5mの太田名部防潮堤と普代水門が機能して、津波災害から村の人の命と家を守った。元普代村村長の和村幸得は、 
この村が明治三陸地震(1896年)の津波災害で302名の犠牲者、昭和三陸地震(1933年)の津波災害で137名の犠牲者を出したことを、いつも忘れずにいた。絶対に3度目は犠牲者を出さないとの固い決意で2つの津波防波堤を築いた。彼の遺志が今回の津波から村民を守った。普代水門は地震の後停電のため扉は通常操作では閉めることができずに、駆けつけた消防団員の方の必死の手動操作で閉めかけた。扉が全部が閉まらないうちに津波が到達したが、ここを乗り越えた津波は、防波林ともいうべき河原の木々を倒して上流に行く間に水勢を弱め村民の居住区は被害を免れた。 
太田名部防潮堤にぶつかった津波が人々が居住していない、いわば遊水地ともいう場所の方に流れて水勢を弱める工夫もされているという。地形をうまく利用し、人為的な工夫も施された設計はみごとというしかない。 
 
 
普代から田老の間は、三陸鉄道の冬季間イベントのこたつ列車に乗った。 
先客は花巻市からの方々で、わたしたち25名が乗り込むとこたつ列車の一車両は満員となった。すぐにトンネルに入るとイベントが始まった。“なもみ”という男鹿半島のなまはげのようないで立ちの鬼たちが二人現れて、「悪さするこはいねかー!」と大きな包丁を持って通路を練り歩く。みんなわいやわいやの喝采で盛り上がる。途中鬼さんとの記念撮影に応じてくれて、みんな写真を撮りまくる。 
「一度この鬼の面を取ってみろ」と云われて取ってみたんだが、 
「やっぱ取らん方がいい。被っていろ!」と云われたんだ! 
「いや顔が悪いとかじゃないんだよ。やっぱ鬼の面被ってないと様にならんのさ」ということだそうだ。 
普代の駅を出発してすぐ、右手高台の家のおばちゃんが列車に手を振ってくれている。列車のみんなも手を振り返す。第3セクターのこの鉄道が復活してから毎日手を振ってくれているそうだ。小さいことながらこの鉄道を応援していこうという気持ちが伝わってくる。 
途中駅「岩泉小本(いわいずみおもと)」のホームの待合室の壁に「想人(おもと)待ち愛室」という紙が貼られていた。微笑ましいアイデアである。これもこの鉄道を盛り立てようという気持ちが伝わる。 
女性車掌さんが、名物お菓子や鉄道の絵柄のタオルなどのグッズを説明しながら車内販売していた。 
わずかな区間を乗っただけだが、同乗されていた花巻市のみなさん、車内の“なもみ”イベントを含めて、この鉄道を盛り上げて観光客にいっぱい来てもらおうという気持ちが伝わってきた。 
 
田老駅のホームには、「ようこそ 三陸ジオパークへ」の横断幕を掲げた地元のジオパーク関係者の方々が出迎えて下さった。 
ここからは学ぶ防災ガイドの佐々木純子さんが案内して下さった。 
かつて田老の町は松林があり海は見えなかったが、あの日の津波が大半の松を倒していって、いま海が見えている。あの日は軽い感じのピンポーンという音の防災放送が流れたが、みんな深刻な放送と受け止めていなかったのではないだろうか。昭和35年のチリ津波を防いだ防潮堤があるということが「今度も大丈夫、防いでくれるだろう」という過信につながっていたかもしれない。それでも、町の人はこの防潮堤が被害を小さくした面はあるので、この防潮堤のことをいまは誰もうらんではいないだろう。いまでも41名の行方不明者がいる。(こういう云い方をしていいものか表現が難しいのだが)亡くなった方が戻った方は悲しいことだが、いつかは気持ちの踏ん切りがつくこともあるだろうが、行方不明者のいる方は、もしかしてどこかで生きているかもしれないという一縷の思いもあり、気持ちの整理ができなくよりつらいともいえる。 
第一防潮堤の上からは、復興が進んでいく田老の町が見える。新たに作られる防潮堤はとても高い壁となりもう海は見えなくなるだろう。 
震災の直後は海を見ることができなかった。いまは「自然っていいな」、「海っていいな」、「ジオは楽しむものだ」という思いを持っている。未来の子供たちに、この震災で起きたことを語り継いでいくことが自分の役割だと佐々木さんは思っている。 
たろう観光ホテルという津波災害から残ったホテルがある。今回津波遺構として保存が決まったそうだ。1,2階は赤い鉄骨がむき出しになっている。津波は4階部分まで達したそうだ。外側の非常階段を上り6階の和室に入り、ここで当日の津波のビデオを見せていただく。当日この6階の部屋からホテルの社長さんが、押し寄せる津波の姿をビデオに収めた。山の陰から白い波がしらが上がり突然津波が押し寄せて来た。反対側の山の斜面にぶつかって大きくなった津波が町の中心に向かってくる。引き波の勢いが強く、家も車も何もかも海の方にさらっていってしまう。とてもこの水の勢いには抗しきれない。 
佐々木さんの語る津波災害の教訓は、 
・今まで大丈夫だったから今度も大丈夫、という思いは捨てる 
・みんなが避難しないからわたしもそうしよう、という同調はやめる→率先して避難者に 
・周りの情報のうのみは駄目→自らの判断で行動する 
佐々木さんは、実際にご自身も津波体験をされて、また近しい方を津波で失った体験もされた。二度とこういうことにならないために自身の体験を次世代につないで行こうという思いにあふれた語りであった。聞いている者も思わず目頭が熱くなり、心に響いて来た。 
 
見学途中に遠目に見えた製氷貯氷施設には、黄色の津波表記があった。 
昭和三陸津波(1933年3月3日) 津波水位 10m 
明治三陸津波(1896年6月15日)津波水位 15m 
東日本大震災(2011年3月11日)津波水位 17.3m 
と、この地方を襲った大きな津波の水位を記録に留めている。 
 
田老には、今回は訪れていないが、山の小高いところに「大海嘯記念」碑がある。 
一 大地震の後には津浪が来る 
一 地震があったら此処へ来て一時間我慢せ 
一 津浪に襲れたら何処でも此の位い高所へ逃げろ 
一 遠くへ逃げては津浪に追付かる 
一 常に近くの高い所を用意して置け 
    昭和九年三月 
石碑を建立したのは、昭和8年の昭和三陸津波の翌年である。このときの津波体験と或いは明治三陸津波の体験も踏まえて、後世に教訓を残そうとしたのだろう。この言葉は、まったくいつの時代にも通ずるものだと思った。 
 
岩手は宮沢賢治のふるさとである。北山崎のジオパークの説明看板にも紹介されていた。 
1925年、宮沢賢治が田野畑村羅賀の港から発動機船に乗ったとされる情景をつづった詩が「発動機船」三部作である。文学者として有名な賢治であるが、盛岡高等農林学校(現在の岩手大学農学部)では地質を学び、各所の地質図を作成している地質学者でもある。「石っこ賢さん」のあだ名で呼ばれるほど、生涯にわたって地質と深く関わり、作品にも数多くの岩石や鉱物の名前が登場してくるそうだ。 
また、三陸復興国立公園パンフレットの中に「宮古の文学」として下記が紹介されている。 
宮沢賢治は大正6年(1917年)7月に花巻町有志による東海岸視察団に加わり、宮古を訪れている。 
この時に詠んだ 
「うるはしの 海のビロード 昆布らは 
寂光のはまに 敷かれひかりぬ」 
の歌が碑に刻まれている。 
 
また賢治は、わたしたちの地元でも噴火湾に関する詩を作っている。 
現在 道央道の有珠山サービスエリア内に大きな石碑があり、賢治の詩が刻まれている。 
 
「噴火湾(ノクターン)」(『春と修羅(第一集)』より) 
噴火湾のこの黎明の水明り 室蘭 
通ひの汽船には二つの赤い灯がと 
もり 東の天末は濁つた孔雀石の縞 
黒く立つものは樺の木と楊の木 
 
行替えは、石碑に記されたとおりにしてある。 
石碑の書は松前の書道家で文化勲章受賞者の金子鷗亭 
(かねこ おうてい)になる。何というかとても温かみのある字体である。 
 
以下は、インターネットサイト「石碑の部屋」から引用させていただく。 
賢治がこの作品をスケッチしたのは、1923年夏の樺太旅行の帰途、室蘭本線上り列車に乗っていた8月11日の夜明け前頃であった。 
往路では、亡くなった妹を追い求める悲痛な覚悟を胸に、青森、津軽海峡、駒ケ岳、旭川、宗谷海峡と通過する途上で、次々と作品を書いていった賢治だが、帰り道で残した作品は、これ一つだけだった。 
夜行列車の中で賢治はなかば夢を見ながら、妹とし子の面影を見たり、車室の軋りを栗鼠の鳴き声のように錯覚したり、「アラビア酋長」の声を聴いたりしている。(中略) 
そうこうするうちに、しだいに賢治は目が覚めてきた。もうすぐ夜明けが近いことに気づいて左手の窓の外を見ると、そこには碑のテキストになっている景色があった。 
 
短い時間であったが、三陸海岸の一端を垣間見て来た今回の旅であった。 
東日本大震災の爪痕とその後の復興の様子。三陸海岸の入り組んだ絶景、各地に残る歴史上の逸話、文化、食べ物。そしてつらい経験を経て、新たに復興に向けて町を元気にしようとしている人々の姿など。短い時間でも交流が持ててよかったと思う。 
特に宮古のみなさま方には、現地でたくさんのことを教えていただき感謝いたします。 
来年の半ばごろには、室蘭と宮古の間にフェリーが就航する予定である。わたしたち西胆振に住む者にとって、室蘭からフェリーに乗っていけるのは楽になることで、三陸海岸との距離がより縮まるだろう。 
 
(2017-3-8記) 
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プロフィール
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2007年に横浜から夫婦で移住。趣味は自然観察/山登り、そしてスケッチやエッセーを書く・・・ 
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