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[2016.11.29]
■坂の上の雲ミュージアム
11月中旬に四国の鳴門で学生時代のクラブの同期会があった。 
せっかくなので、その後に四国の中を巡った。うだつの町並み、祖谷渓、松山、内子町などを巡った。 
愛媛 松山の町は初めて訪れた。わずかな時間であったが、松山では「坂の上の雲ミュージアム」を訪れた。松山に行ったら一度訪ねてみたいと思っていた。 



ご存知のように「坂の上の雲」は、司馬遼太郎によって書かれた明治期の日本人の叙事詩ともいうべき小説である。主人公の3人――正岡子規(俳句・短歌の革新を成す)、秋山好古(陸軍軍人)、秋山真之(海軍軍人)を中心において、明治期の日本人が懸命に新興国家を作って行く姿や特には日露戦争にいかに対処していったかを克明に描いている。主人公の3人が、松山で生まれ、幼少、青年期を過ごしたことから、この思い出の地にミュージアムが設立されたのだろう。 
ミュージアムの中は、ぐるりと坂道を登りながら4階まで展示を見ていく仕組みになっている。 
途中壁に貼られた1400枚超の新聞掲載の小説のコピーに圧倒された。産経新聞の連載期間が4年数か月で、この小説を書くための調査準備期間が5年くらいあったので、司馬さんの40代は、「坂の上の雲」のために費やされた。ほぼ10年の年月が、この小説を作ってくれて、民族の叙事詩ともいうべき作品になった。毎回の新聞にその話の中身に合わせた挿絵が描かれているが、これを描かれた方のご努力も大変なものであっただろう。 
今回挿絵に描いたのは、大正時代に建てられた萬翠荘(ばんすいそう)というフランス風の建物である。松山城の森に中にたたずんでいる。ミュージアムからも近いので、中を巡っていると窓越しにこの風景に出会える。旧松山藩主の子孫である久松定謨(ひさまつ さだこと)が建てた別邸で、彼はフランスでの留学、陸軍駐在武官時代が長かったので純フランス風の建物を希望した。明治維新後に青年期を迎えた定謨は、フランスに留学し、明治20年にサンシール陸軍士官学校に進んだ。このときに輔導役として付き添ったのが秋山好古であった。好古は当時28歳で、陸軍大学校を卒業して、騎兵大尉に任じられていた。行く末はドイツに留学して陸軍の要職を期待されているところであったが、旧藩主筋からのこの依頼は重く、心情として引き受けざるを得なかった。維新後、旧藩主・家来の関係は解かれてはいたが、なお儀礼上は旧藩主に対し家臣の礼はとられていた。好古のフランス滞在は5年に及び、ここでフランス式騎兵、馬術を学び、そのいい点は後に日本の騎兵にも取り入れられていった。 
 
ミュージアムでのこの1年間の企画展示は「子規と帝国大学」というタイトルになっていた。子規や真之が大学予備門(東京大学の前身)に学んだ頃の大学の様子やそこで学んでいた人々についての記述が多かった(例えば夏目漱石、米山保三郎など)。その中に「東京大学は配電盤の役割」という文言があった。このことについて、司馬遼太郎は「この国のかたち三」62文明の配電盤 で以下のように述べている。 
*自動車などの内燃機関には、配電盤(ディストリビューター)というものがついている。 
いうまでもなく、気筒群(シリンダー)のそれぞれの点火栓(プラグ)に電気を配る装置である。配ることによって一定の順序で爆発させる。 
まことに明治初年、西欧文明受容期の日本は一個の内燃機関だった。 
その配電盤にあたるものが、東京帝国大学(以下、東京大学)で、意識してそのように作られた。いまでもこの大学に権威の残像がのこっているのは、そのせいである。 
明治30年(1897年)、京都帝大が設立されるまで30年間、日本には右の“配電盤”は一つしかなかったが、実によく作動した。 
当時におけるこの大学の諸学を仮に電流とすれば、当初はその電流の役目を“御雇外国人”が果たした。当時のかれらの給料表をみると、太政大臣や右大臣級の高給だったことにおどろかされる。 
貧乏国にとって負担が大きかったが、新政府はかれら外国人の役割を十余年と見、いずれ日本人と交代させることを考えていた。 
分野ごとに日本から留学生が、独、仏、英、まれに米などに派遣され、明治10年代のおわりごろには“御雇外国人”たちはほぼ第一線から退き、“新帰朝”の日本人学者たちと入れかわった。(中略) 
神田には江戸時代から文武の私塾が密集していて、明治後、いっそう増えた。そのうちのいくつかが、こんにちでは総合大学、もしくは単科大学になっている。 
これは、明治の配電盤と関係があるのではないか。 
幕府の洋学機関開成所は神田一ツ橋におかれ、それが明治後、東京大学に発展した。やがて本郷台に移るこの大学は、明治初年は右の神田一ツ橋から出発した。神田はいわば地元だった。 
自然、国力を傾けて作られたこの巨大な配電盤は、地元の神田の私学に、いわば漏電をするようにして“新文明”をこぼした。 
その中で高貴ともいうべき例がある。神田に設けられた私学の一つ東京物理学校(こんにちの東京理科大学)のことである。 
明治初年、東京大学の理工系を出た人達には、国家のカネによって学問を授かったということで、国恩を感ずる人が多かったらしい。 
とくに明治12年(1879年)前後の理学部物理学科の卒業生にその意識が強かった。 
かれら21人は、同盟を結び、報恩のために一私学を興そうと申し合わせた。ただし、金がないために当初は他の学校の校舎を間借りした。さらには、夜学にした。(教授や学生は昼間の東京大学での講義が終わった後の夜に教えた) 
明治14年における東京物理学校の出発である。 
資金はすべて、“配電盤”である右の学部の卒業生たちの拠金によった。かれらは維持同盟を結び、その規約の中で、 
「会員は30円を寄付すべし」 
という項目を設けた。当時、下級官吏が月に十数円もとればいいほうだったから、この額は安くなかった。ただ、月賦もゆるした。月賦の場合、一円以上は納めよ、とある。むろん、寄付の見返りはなく、まったく無償のものだった。(後略)* 
新文明の配電盤の役目を果たした東京大学について、いろいろなものが展示されていたが、中に当時の大きな卒業証書があった。担当学科ごとの教授の署名、学部長の署名、そして総長の署名と10数名の方の署名が並ぶ。これだけの先生方からの講義を習得したという証明書である。日本人教授は毛筆で墨痕の黒は鮮やかにいまに残るが、外国人教授はおそらくペンのサインで、インクはいまかすれていた。 
 
見学の途中でボランティアガイドの方が話しかけてくれた。初代松山城を築城した加藤嘉明(かとう よしあきら又はよしあき)の名前も出てきた。 
加藤嘉明は戦国末期の武将で、豊臣秀吉によって子飼いから育てられた秀吉の軍事官僚である。賤ケ岳の七本槍の一人としても名高い。一時秋山好古の故郷の伊予の国の大名になったこともあり、伊予松山城は彼が築いた城で、好古は年少の頃からこの武将の名を身近に感じてきた。 
「いくさにおける勇猛さ、大胆さというものはどういうことか?」 
好古は軍人である以上、このことを考えねばならなかった。 
嘉明は晩年、ひとから「どういう家来が、いくさに強いか」 
と、聞かれた。当然、強いといえば天下にひびいた豪傑どものことであるという印象がその当時の世間にもある。 
が、嘉明は、 
「そういうものではない。勇猛が自慢の男など、いざというときどれほどの役にたつか疑問である。かれらはおのれの名誉を欲しがり華やかな場所ではとびきりの勇猛ぶりをみせるかもしれないが、他の場所では身を惜しんで逃げるかもしれない。合戦というものはさまざまな場面があり、派手な場面などはほんのわずかである。 
見せ場だけを考えている豪傑など、少なくとも私は家来と
して欲しくない」 
と豪傑を否定し、戦場でほんとうに必要なのはまじめな者である、といった。たとえ非力であっても責任感がつよく、退くなといわれれば骨になっても退かぬ者が多ければ多いほど、その家は心強い。合戦を勝ちへ導くものはそういう者たちである、と嘉明はいう。 
 
順路に沿って歩いていくと、壁に貼られた手紙のような紙片があった。 
どなたか名前は書き留められなかったが、小説を読んでの感想が述べられていた。旅順攻防戦についてである。 乃木司令官や伊地知参謀長の無能ぶりで多くの士卒が突撃を繰り返して、ロシア軍旅順要塞の前に果てた。命令のままに死地に赴く明治の兵隊たちの従順さに憐憫を感じての文だった。 
*乃木や伊地知の無能について、東京での評価は決定的になり更迭説も出ていた。しかし戦いの継続中に司令官と参謀長をかえることは、士気という点で不利であった。 
「あの作戦では、士卒を大量に投じては旅順の埋め草につかっているだけで、旅順そのものはびくともしていない。いったいなにをしているのか」 
という批評も、大本営では出ていた。驚嘆すべきことは、乃木軍の最高幹部の無能さよりも、命令のまま黙々と埋め草になって死んでゆくこの明治という時代の無名日本人たちの温順さであった* 
この方の感想は、この最後の一文を書いた時の司馬さんの心境はいかばかりであったろう、ということであった。 
館内を巡りながら、小説の中のいろいろなシーンが思い出された。 
 
◆参考資料 
「この国のかたち三」司馬遼太郎 
「坂の上の雲」の各編 司馬遼太郎 
(2016-11-27記) 
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プロフィール
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2007年に横浜から夫婦で移住。趣味は自然観察/山登り、そしてスケッチやエッセーを書く・・・ 
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