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[2016.09.09]
6月の後半にチロル地方の旅行に出かけた。  
旅行の最後はミュンヘンに出て一泊し、翌日ミュンヘンからフランクフルトへドイツ鉄道で移動して、フランクフルトから帰国した。  
ミュンヘンでは、一番の繁華街のマリエン広場の近くに宿をとったので、夕方近くの市庁舎を見物しながら、ビアホールに向かった。  



ホフブロイハウス(HOFBRÄUHAUS)という歴史のあるビアホールである。1589年バイエルン公・ヴィルヘルム5世の命によりブルワリーとして開設されたという古さである。日本では安土桃山時代の頃である。  
1階の大ビアホールは1300人以上が入れて、楽団の生演奏が聞けるので人気の場所である。木製の大きなテーブルとそれを囲むような木のイスのエリアがたくさんあり、一か所に10人くらいは座れるだろうか。わたしたちも3人で座ったが、すぐに他のお客が4人来た。ここでは相席が原則で、「まあ、何かのご縁でここで一緒の席になったので、世界中の人が飲みながら仲良くやりましょう」ということらしい。  
わたしたちの相席の仲間は、オランダ人4名で、ボッシュという会社の人たちだった。ミュンヘンで会議があるようで、この夕べは揃ってこのビアホールに繰り出そうということになったようだ。一番年かさの方は、落ち着いた雰囲気でみんなから“プロフェッサー”と呼ばれていた。  
片言の英語でコミュニケーションを図る。  
サッカーのヨーロッパ選手権の真っ最中だったので、その話題を振ってみた。残念ながらオランダは今回予選敗退で出ていなかったので、この話題はここで没。  
わたしの乏しい記憶の中で“カッテンディーケ”の名前が出てきた。  
「日本は幕末の頃、オランダ人のカッテンディーケにとてもお世話になったのです。」のようなことを伝えると、“プロフェッサー”はこの歴史上の人物の名前を憶えていたようで何か語ってくれたが、受け取る方の私が聞き取れなかった。  
“カッテンディーケ”には、日本人は随分とお世話になったというべきだろう。オランダという国にも随分お世話になった。  
徳川幕府は、幕末に西欧の進んだ海軍技術を取り入れるべく長崎海軍伝習所を開いた。ここでオランダから派遣されたペルス・ライケンやカッテンディーケにより、勝海舟や榎本武揚など幕臣や雄藩から選抜された藩士が航海術、砲術、測量術など近代海軍のベースとなる技術習得に励んだ。オランダからは練習船として観光丸が寄贈された。江戸幕府は鎖国令を敷いた後も、西欧の国としては唯一オランダには門戸を開いて長崎の出島で交易を許した。この交易でオランダは独占的に利を占めることが出来た面はあるが、日本もこの窓口から蘭学という西欧の文物・知識を仕入れて、やがては幕末にそれらの知識から明治維新に向かっていったともいえる。  
1863年に幕府からオランダに留学生として派遣された榎本武揚らは、オランダに帰国してこのとき海軍大臣になっていたカッテンディーケに彼の地でも大変お世話になった。  
勝海舟が幕臣でありながら、もっと広い日本国という視野で物を見ていた背景には、長崎でのカッテンディーケとの接触により得た世界情勢についての知識があったからだろう。  
閑話休題。  
ホフブロイハウスの名物は、ドュンケルという黒ビール、ヴァイスヴルストというゆでた白ソーセージ、骨付き豚肉の煮込み料理などで、これらをいただきながら何回も“乾杯!”を繰り返していた。楽団が演奏する陽気でにぎやかな音楽と多くの人のざわめきがホールを満たしていた。給仕の世話をしてくれるお兄さんがテーブルごとにいるのだが、われわれのテーブル担当のお兄さんは、面白い人だった。ビールを置くコースターが一つ足りなかったので、その旨を伝えると笑顔でドサッと10枚くらいのコースターを置いてくれた。  
せっかく置いてくれたので帰りに記念に何枚かもらってきた。大きな身体で、ユーモアのある好人物だった。お互いの言葉は片言だが、笑顔は万国共通のコミュニケーション手段で、何となく気持ちは通じ合える。  
 
この日の朝、北イタリアのドロミテ山群の見える村を出発してミュンヘンに向かった。ブレンナー峠を越えてインスブルックを通り南ドイツに入った。  
途中、ミッテンヴァルト(MittenWald)という小さな美しい町に寄ってきた。  
ゲーテが「イタリア紀行」の中で“生きた絵本”と讃えた壁画や街並みの美しいところだ。  
ドイツは中央部分には山らしい山はなく丘が続いているが、南の方、オーストリア国境近くに高い山々がある。ミッテンヴァルトも町の背後に壁のように高い山(カーヴェンデル山群)を持つ町である。  
 
 
旧市街にある高い目立つ塔は、「聖ペーター・聖パウル教会」で町のシンボル的な存在となっている。この教会は1740年頃に建てられ、外観に聖ペーターと聖パウロの二人の聖人が描かれ、オーバーバイエルン地方で最も美しい塔といわれているそうだ。  
観光客が多くなった現在、町の目抜き通りの両側には様々なおみやげ屋が軒を連ねている。  
観光客も多く、道を歩く人、おみやげ屋をのぞく人、野外のカフェでお茶をする人などがいっぱいだった。  
ミッテンヴァルトは、また世界的に有名なヴァイオリン制作の町である。その歴史は古く、1684年にマティアス・クロッツがその技術をこの町にもたらした。マティアスはこの町で生まれ、ストラディバリウスで有名なイタリア・クレモナでヴァイオリン制作を学んだ。帰郷後は、故郷ミッテンヴァルトでヴァイオリン制作を始めて、またヴァイオリン制作を教える学校も始めた。マティアス・クロッツのこの功績が認められたのだろう。教会の前には、チェロを持つマティアスの銅像が建てられていた。  
現在も町中には、ヴァイオリンを作っているお店があり、おじさんがヴァイオリンのふたになる板を削っていた。店の中にはたくさんの作られたヴァイオリンが上の方からつるされている。  
今回いっしょに旅をしたわたしの友人もここでチェロを作ってもらったそうだ。  
町中にはところどころ清水を流して桶で受けている場所があった。背後に高い山があるのでそこからの豊富な水が来ているのかなと感じた。  
 
今回の旅の初めにミュンヘンからオーストリアのマイヤーホーフェンに向かった。テガーン湖(Tegernsee)という湖を過ぎて、オーストリア国境に近いところにヴィルバート・クロイト村というところがあり、立ち寄った。  
2年前わたしは頭部に帯状疱疹が出て、前後数か月はめまいや不快症状が出て調子の悪い時を過ごしていた。本を読むのも、エッセー書きをするのもいやで、音楽を聴いたり、「鬼平犯科帳」のビデオを見たりの日々だった。そんなときでも不思議と絵を描くことだけはしていた。安野光雅さんの画集から写しを描いてみたり、過去に旅行した場所の風景を描いてみたり、毎日少しづつ描くことができた。  
ヴィルバート・クロイト村は今回ツアーコンダクター役を務めてくれた友人が2年前に大学の仕事で訪れた所だった。その時に友人から、この村の何枚かの写真を送ってもらい、描いてみたのが上の絵の古いレストランだった。  
今回訪れて2年前に自分が書いた建物を見たら、何か初めてのような気がしなかった。自分で絵を描いた建物は、何かもうすでに過去に訪れた場所のように感じた。車が駐車してある場所はこんなところだったのだ、建物の階段部分はこんなだったのか、また建物の後ろ側にはこういう場所が広がっていたのか、などの感想が出てくる。  
2年前に友人と、メールで写真と絵のやり取りをしたこともきっかけで、「いつか調子がよくなったらスケッチ旅行に行こうか」と云ってくれたことが、今回のチロル旅行につながったと思っている。  
その意味では、南ドイツのこの村のレストランはわたしにとっても思い出の場所になっている。  
 
(2016-8-21記) 
[2016.05.19]
伊達の近郊では、どこにでも丘に登ればいい景色に出会える。  
手前に丘の緑の原や木々が様々に縁取りを作っている。町が扇状地に広がっている。  
その向こうに青い海があり、海の向こうには青い山並が広がり、5月初旬の頃まではその青い山並の上に白い残雪が残る風景が広がる。  

[2016.04.22]
司馬遼太郎著「街道をゆく40――台湾紀行」を読んでいたら、清々しい日本人に出会った。 
台湾の不毛の大地を美田にしようと実行した人の話である。八田與一(はった よいち)という土木工学者である。 

[2016.03.29]
美瑛の丘に一本目立つポプラの木があった。丘の上に独立して、樹齢を重ねてきた木である。  
ここに来ると思わず丘と空を背景に写真に収めたくなる。  
この木が所有者の方の手で切り倒された。  

[2016.02.16]
かつて有珠の外輪山の中には森が広がっていて、銀沼という沼があり、牧草地があり、牛が放牧されていた。  

[2016.01.29]
冬の有珠の森は静かだ。  
木の葉が落ちた木々が立ち並び、遠くの方まで見通せる。  
中腹より下の方で、小鳥たちが飛ぶ姿を見かける。  

[2016.01.18]
有珠山の北側に四十三山(よそみやま)と呼ばれる地域がある。こんもりとした丘状の山でこの山頂からは洞爺湖や羊蹄山が望めるのだが、いまは木々が繁ってその間から望むことになる。 

[2015.12.15]
松尾芭蕉が「奥の細道」の旅で象潟(きさかた)を訪れたのは、元禄二年(1689)だった。芭蕉が来たこのときの象潟は、「東の松島 西の象潟」といわれる景勝の地であった。  
芭蕉はここで、  
象潟や雨に西施(せいし)が合歓(ねぶ)の花  
と詠んだ。  

[2015.10.27]
今年亡くなられた哲学者 鶴見俊輔氏に「思い出袋」(岩波新書)という著書がある。中に大山巌(おおやま いわお)について述べた一節があり、目に留まったので紹介させていただく。 

[2015.09.26]
「アポイ」という音の響きは優しい。また詩情を感じる。  
かつてTVの東芝日曜劇場で「アポイの休日」という番組があった。宇野重吉が養蜂家になって、アポイの山麓で蜂と共に蜜を集めるところが詩情豊かに描かれていた。アポイの自然に溶け込むような画面が作られていた。そんな背景も手伝ってか、アポイの音に、優しさや詩情を感じているのかもしれない。もう半世紀も前のことである。  

プロフィール
mimi_hokkaido
mimi_hokkaido
2007年に横浜から夫婦で移住。趣味は自然観察/山登り、そしてスケッチやエッセーを書く・・・ 
好きなもの 
・散策 
・山行 
・サッカー 
・お酒 
・「坂の上の雲」 
洞爺湖有珠火山マイスターに認定されました。 
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