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[2017.06.20]
釧路の町を訪れた。  
道南の伊達に住んでみると道東は遠い。感覚としたら、本州から女満別空港に降りて、レンタカーで網走など道東を巡る方が楽に感じる。  
伊達から釧路までは、陸路373km。ほぼ東を目指して北海道を横断する。370kmという距離は、東京を起点とすると西は名古屋(348km)のちょっと先、北は仙台(370km)までと同じになる。  
 
1950年代の釧路風景 


北海道も高速道が伸びたので、伊達から釧路の手前の阿寒までは高速道に乗って行ける。阿寒で降りて釧路の町までは一般道を走って小1時間で行けるようになった。自分で運転できる間に出来るだけ道内各地を訪れてみたいと思い、その初めに釧路に行ってみようということになった。  
釧路駅から南に伸びる大通りを1kmくらい下ると、釧路川をまたぐ幣舞橋(ぬさまいばし)がある。釧路を代表する大きな橋で、かつての豊かな釧路を象徴している。片側3車線づつ6車線の車道と両側に幅広い歩道があり、橋全体の幅は33mと大きい。橋の始まり部分はオベリスク(大理石の石塔)で形作られ、橋の上には4体の四季を表す女性像が建っている。釧路川の河口に位置し、西側の太平洋に沈む夕陽が美しい場所として知られる。現在の橋は5代目の橋だそうだ。橋を渡った南側は小高い丘になっていて、NHK釧路放送局があり、ときどきTV北海道版でこの放送局から幣舞橋方向を映し出す風景が流れて、北海道民には馴染みのある場所である。  
幣舞橋とは何かいわくがありそうな名前ではないか。  
アイヌ語の「ヌサ・オ・マイ」(幣場のあるところ:幣場とは、神を祀るためのイナウ⦅木幣⦆を立てて並べて祭祀などの儀式を行う場所)に由来しているという。その美しさも評価されて、札幌の豊平橋、旭川の旭橋とともに北海道の三大名橋といわれる。  
かつての釧路は、北洋漁業の基地であり、太平洋炭鉱が一大産炭地として多くの石炭を産出し、またパルプ・製紙業が盛んであった。また雪印乳業の工場があり乳製品も作られていた。これらの産業が盛んで人口も多く、経済も活況を呈していた。日本銀行釧路支店が置かれたのは昭和27年(1952年)であり、函館支店、札幌支店につぐもので、道東の経済の中心を担うものである。今回挿絵には、1950年代の幣前橋風景を描いたが、橋を渡った左側にある白い角型の建物が日銀釧路支店である。  
 
近くにお住いの大学の大先輩O先生は、若い頃釧路の病院に出張で出かけた経験がある。昭和30年頃の話である。釧路市立病院の小児科を担当されていたある先生が、市内で開業することになり、小児科担当が空席になった。次の担当医が決まるまでの間、札幌から出張者で対応することになり、初めにO先生が出かけることになった。晩秋から冬にかけての時期であった。当時の釧路は、石炭、製紙、パルプ、漁業などの産業が活況を呈していた時代で、町には活気があった。  
先生の勤務された市立病院は、幣舞橋を南に渡った丘の上にあり、宿舎は病院のそばの一軒家が充てられた。仕事を終わって宿舎に戻ると、下の幣舞橋の周辺の灯りが見える。灯りに誘われるように坂を下り、橋を渡った北側にあった飲み屋さん街に通った思い出がある。夕方の灯は人を呼び寄せるものがある。  
或る日、宿舎の玄関前にどーんと石炭が置かれている。  
しかも塊炭(かいたん:大きな石炭の塊で4cm以上のもの、燃え付きがよい)である。当時一般家庭では、もっと小さな(粉炭だろうか?)燃え付きの悪い石炭を使っていた。どうも、以前健診で子供を診てもらったお礼にと親ごさんが届けてくれたものだったようだ。何とも景気の良い時代の話である。  
当時の釧路は道東の一大拠点であり、釧路市立病院には日に100人くらいの小児科の患者さんが来ていた。遠くは網走や根室からもやってきた。遠くて通院ができない子供たちは、入院してもらっていた。先生はちょうどクリスマスの前に一度、札幌に報告で戻ったことがあった。入院している子供たちに札幌の町でクリスマスプレゼントをもとめて戻った。子供たちがとても喜んでくれた思い出もある。  
O先生の後を受けて2か月ほど出張されたのは、T先生であった。お酒好きのT先生は、給料・出張手当をほとんど飲んで、釧路に落として来たそうだ。T先生が札幌に戻るとき、夜行列車急行「まりも」のホームには、大勢の飲み屋やバーのマダムたちが、餞別にとウイスキーを持って見送りに来てくれたそうだ。華やかかりしときの情景ですなあ。  
次に引用させてもらうのも古き良き時代の釧路の光景の一コマ。  
キャバレー「ニュー東宝」は夜の社交場であった。ホールのドアを開けると耳をつんざくばかりのバンドの大音響と、まばゆい照明のもとに繰り広げられるホステスとのダンス。サラリーマンに混じって、ゴム長をはき、タオル地の手ぬぐいを頭に巻いて、札束で腹巻を膨らませた漁師のお兄さんが堂々と踊っていた。漁師さんは大もてにもてたんだそうです。焼き鳥屋台のおばさんなどに思い出話を聞くと、そういうお兄さんが来たら、一週間店を休んでもよいくらい潤ったといいます。(この項、「釧路街並み今・昔」永田秀郎著)  
 
釧路に滞在した5月中旬は寒い日であった。食事に町中に出た夜には5〜6℃になり冬のコートや手袋をしていた。炉端焼きのお店で、かきやつぶの焼き物、お刺身などのつまみで一杯飲んだ。生ビールの後に、地元のお酒「福司(ふくつかさ)」しぼり立てをいただいたが、これは美味しいお酒であった。地元のお酒を地元の肴で飲むから余計美味しく感じられるのかもしれない。後でネットで調べてみたが、1月頃の売り出しで、もう売り切れてないことが分かった。  
お店で支払いの時にもらったアンケート用紙の裏側に、面白い情報があったので紹介する。  
釧路管内の難読地名クイズである。  
・昆布森 こんぶもり 昆布の海  
・十町瀬 とまちせ エンゴサクが広く群生しているところ  
・又飯時 またいとき 海の瀬の荒いところ  
・来止臥 きとうし きと(祈祷)びるの群生しているところ  
・浦雲泊 ぽんとまり 舟がかりが出来る小さな入江  
・跡永賀 あとえか 昔海であったところ  
・冬窓床 ぷいま 海に中に立っている岩  
・入境学 にこまない 川尻に流木の集まる川  
・去来牛 さるきうし 葦(よし)の群生しているところ  
・初無敵 そんてき 沼であるような  
・賤夫向 せきねっぷ 樹木の少ない山で、石落ちるところ  
・分遣瀬 わかちゃらせ 水が滝となって落ちているところ  
・老者舞 おしゃまっぷ 川尻に倉の形をした岩山があるところ  
わたしは初めて見る地名ばかりで全く読めなかった。キャッシャーの女の子は地元の人だったが「わたしも半分以上読めません!」と云っていた。  
 
釧路といえば、石川啄木の足跡が残る。啄木が釧路に来たのは明治41年1月21日で、釧路に滞在したのはわずか76日間といわれる。釧路新聞社に勤め、この町の印象を詩歌に多く残していった。啄木が釧路を去るときに詠んだ詩は、  
神のごと 遠く姿をあらはせる  
阿寒の山の 雪のあけぼの  
さらに釧路というと原田康子の「挽歌」を思い出す。1956年に出版されるとベストセラーとなり、やがて映画化もされた。学生時代に読んだ記憶がある。最近では、釧路市出身の桜木柴乃が2013年に「ホテルローヤル」で直木賞を受賞した。彼女は中学生の頃に原田康子の挽歌の文庫本に接した。自分が住む町が小説の活動舞台になり、普段の街並みが作家の目を通すとこのように活き活きと描かれるのかと気づき、それが文学を志すきっかけとなったという。  
来年2018年に北海道は、この名に命名されてから150年の節目を迎える。  
松浦武四郎は、幕末に何度も蝦夷地を訪れた探検家であり、当時の蝦夷地の状況を克明に記録に残した人として知られる。明治になって北海道の名付け親にもなり北海道開拓についての献策も多い。  
釧路市幣舞公園にある彼の像の台座に刻まれた碑文に彼の功績が簡潔に記されている。  
*北海道及び釧路の名付け親、松浦武四郎は幕末に未開の蝦夷地探検の急務を説き一身を賭して苦難と闘いアイヌ民族の協力を得て東西蝦夷地山川地理取調等蝦夷地開拓計画の基礎資料を作成し為政者に供して諸種の献策を行いその促進をはかる。安政5年(1858年)阿寒国立公園地帯を探査して久摺(クスリ:釧路の旧名)日誌を記述せしより百年目にあたりクスリ酋長メンカクシの砦跡たりしサウシチャシコツに像を建て北海道開発先駆者阿寒の父として永えに顕彰せんとするものである。昭和33年(1958年)阿寒国立観光協会*  
アイヌの人々を愛し、彼らの協力で精力的に北海道を調査し、明治の初めに「北海道(北加伊道)」の名付け親になった。「カイ」という言葉には、アイヌ語で「この地に生まれたもの」という意味があるという。「ホッカイドウ」という言葉にはアイヌの人々への感謝の思いが込められているのかもしれない。  
 
◆釧路を訪れたのは、2017年5月14,15日である。  
(2017-6-13記)  
[2017.06.05]
今年は3月に三陸ジオパークを訪れる旅を体験し、また他にも東北地方を訪れる予定があり、陸奥(むつ又は、みちのく)に関する本を読んだりしている。  
学生時代に北海道から東京に帰省するとき、青森から東北線の列車に乗った。4人掛けのボックス席に座った時、いっしょになったおじさんからウイスキーを勧められ、飲みながら話したことがあった。正直なところ、話していることの半分以上が分からなかった。言葉が分からなかったのである。今思えば津軽弁だったのかもしれない。  

[2017.04.07]
先日「ボランティアフォーラム2017伊達」という催しが伊達カルチャーセンターであり、事例発表や講演を聴く機会があった。  
“ボランティア”という言葉は、どんな意味を持っいるのだろう?  
インターネットの百科事典“Wikipedia”によると、「ボランティア(volunteer)とは、自らの意志により  
参加した志願兵のこと。長じて、自主的に社会活動などに参加し、奉仕活動をする人のこと。また、奉仕活動そのものを指すこともある  

[2017.03.09]
ジオパーク友の会では三陸ジオパークの方々との交流を図るために、岩手県宮古市を訪ねる旅を実施した。(2017年3月3日〜5日) 
行程は、苫小牧から八戸へフェリーを往復利用して、1泊3日(一日は船中泊)の旅であった。八戸からはバスで蕪島、久慈の琥珀博物館、北山崎の断崖の景観、普代村水門、普代―田老間は三陸鉄道のこたつ列車、田老では東日本震災の跡地、たろう観光ホテルなどをガイドさんに説明していただいた。そして八戸に戻る一泊の旅であった。 

[2017.02.01]
今回訪れたサン・ピエトロ村から車で1時間くらいのところに、この地域でも大きな都市であるボルツァーノ市がある。ここは古より、イタリアからチロル、南ドイツに向かうときに通る要衝の地である。ボルツァーノの街並みは古い石造りの建物が多く、町中は観光客が行きかう姿が目立つ。この町にある南チロル考古学博物館には、1991年にチロル山中の氷河の中から発見された“エッツィ”(アイスマン)が眠っている。 

[2017.01.12]
晩秋から初冬にかけて見晴らしの丘を歩くと、木々の葉が落ちて枝の先々までが見通せる。遠くの丘にはからまつの並木が見える。時によって場所は異なるのだが、ゆるい傾斜の畑では、秋まき小麦の葉が少し伸びて緑の草原を作っていることがある。  

[2016.12.24]
北イタリアのサン・ピエトロ村というところに3泊して、毎日少しづつ違う位置や高さからのドロミテ山群を眺めていた。岩峰の屹立と緑の丘や針葉樹の森との組み合わせが作る景色は、いままでに見たことのない世界だった。(2016年6月後半のこと)  
実はドロミテという呼称は、とても広範囲を示す名で、わたしたちがフネス渓谷のサン・ピエトロ村から眺めていた山群は、ドロミテの領域の一部であるガイスラー山群という名のところだという。  

[2016.11.29]
11月中旬に四国の鳴門で学生時代のクラブの同期会があった。 
せっかくなので、その後に四国の中を巡った。うだつの町並み、祖谷渓、松山、内子町などを巡った。 
愛媛 松山の町は初めて訪れた。わずかな時間であったが、松山では「坂の上の雲ミュージアム」を訪れた。松山に行ったら一度訪ねてみたいと思っていた。 

[2016.11.24]
オーストリアの西部にあるアーヘン湖(Achensee)は、チロル地方で最も美しい山岳湖といわれる。氷河の堆石が谷をせき止めてできた湖で両側に山が迫る。 

[2016.10.30]
田中舘秀三博士と三松正夫さんの交流を記したいと思う。  
といっても、三松正夫さんが書かれた「田中舘秀三博士への追悼文」からの引用である。  
これを読むと、明治噴火の直後に、向洞爺を訪れた田中舘博士の有珠山についての講演を聴いた三松さんは、心の中で“わたしは勝手に田中舘先生と師弟の契りを結び、火山を科学することを学ぼう”と決意されたようである。それからの永い間の田中舘先生との思い出が具体的に語られている。特に昭和新山生成期の“胆振線国有化への助言”、“警察署との丁々発止のやりとり”などに、田中舘先生の“硬骨漢”振りがよく表れている。  

プロフィール
mimi_hokkaido
mimi_hokkaido
2007年に横浜から夫婦で移住。趣味は自然観察/山登り、そしてスケッチやエッセーを書く・・・ 
好きなもの 
・散策 
・山行 
・サッカー 
・お酒 
・「坂の上の雲」 
洞爺湖有珠火山マイスターに認定されました。 
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