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[2019.12.21]
■ベトナムの国士「ファン・ボイ・チャウ」  
(2016年12月07日) 
 
ベトナム人で日本人も知っている名前と言えば、ホーチミンが有名である。正式には「ホー・チ・ミン」という名前で、ベトナム戦争後の統一ベトナム民主共和国の初代首席であり、国民からは「ホーおじさん」と呼ばれて親しまれている。 
 
しかし少し時代を遡ると、フランスの圧政から独立を目指し日本に密航して勉強をし、当時のベトナムの若者達に大いに影響を与えた男がいた。 
 
ファン・ボウ・チャウ 
 
【ファン・ボイ・チャウと浅羽喜太郎の交流】  


*ミニ知識(ベトナムはフランスの植民地になる前は漢字を使っていた。) 
 
その名は「ファン・ボイ・チャウ」(潘佩珠/Phan Bội Châu)である。最近はベトナム国内でも彼の業績を見直すようになり、かなりの人が彼の名を知るようになった。 
 
そのファン・ボイ・チャウは静岡県と非常に強い繋がりがある。 
ここではその事情は詳しく述べる紙面が無いので、下記の「医師の浅羽喜太郎」で参照して欲しい。 
 
新幹線から見えた富士山は雪景色だった。 
 
 
ファン・ボイ・チャウが時の日本政府の支援を得られず失意の底にいた時に、彼を助けたのが小田原に住んでいた医師の浅羽喜太郎であった。 
 
この時代(1900年初頭)にファン・ボイ・チャウの呼び掛けで日本に200人もの留学生が来日した。 
これを「東遊運動」、ベトナム語で「ドンズー運動」と呼ぶ。 
 
常林寺の「浅羽喜太郎公記念碑」の説明板。 
 
 
因みに私が特別顧問をしているESUHAI社のソン社長はホーチミン市にあるベトナム最大の日本語学校「ドンズー日本語学校」の卒業生である。 
私も3年前にソン社長とこの学校を訪問して、日本留学が決った生徒達に日本語で話をしたことがある。 
 
「ドンズー運動」というのはシンガポールやマレーシアが、戦後になって「LOOK EAST 」と称して「日本を見習え!」という政策を打ち出す70年も前の話である。 
 
ファン・ボイ・チャウが100年前に建てた感謝の石碑。 
浅羽喜太郎の先祖代々の墓がある縁で、常林寺に記念碑を建てた。 
 
 
1918年に浅羽喜太郎が43歳の若さで亡くなったことを中国で知ったファン・ボイ・チャウは日本へ偽名で密航して来て、現在の袋井市の常林寺に感謝の記念碑を建てた。 
 
前置きが長くなり過ぎた。 
以前からその石碑を見たいと思っていたので、その近くの紅葉の名所である「油山寺」の紅葉も併せて楽しもうと思い、その見ごろを待っていた。 
 
常林寺の住職と浅羽喜太郎の墓の前で。 
 
 
住職は「こんな格好じゃあー」と嫌がったが、「記念だから」と言って写真を撮った。彼の話では浅羽喜太郎は中国に行くファン・ボイ・チャウに現在の貨幣価値でいうと6000万円くらいを与えている。 
 
 
そして11月4日に52年前にNYで一緒に働いていた静岡在住のMさんの案内で、石碑と紅葉の旅に行ったのである。 
探しながら行った常林寺は小さな寺で、立派な寺を見慣れた私には驚きだった。本堂の横の住職の家に行き、事情を話した。 
 
左から石碑を建てたファン・ボイ・チャウたち。 
中央は右がファン・ボイ・チャウ、左は一緒に留学して来たベトナムの王子。右写真は浅羽喜太郎。43歳の若さで亡くなっている) 
 
 
住職は浅羽喜太郎の資料を持って来て、浅羽家の墓にも案内してくれた。そして「最近は袋井市にベトナム会というファン・ボイ・チャウの縁でベトナムと交流する会も出来て、駐日ベトナム大使も先日、この寺を訪問した」と話していた。 
 
歴史というのは面白い。 
日本には掘り起こせば、色々な外国との縁があるのである。 
 
案内板にはファン・ボイ・チャウの日本語の感謝の言葉をベトナム語に翻訳してある。 
 
 
(おまけの話) 
「最後の晩餐に何を食べたいか?」と聞かれれば、私は迷うことなく「うな重」と答える。「どの店のうな重が一番好きか?」と聞かれれば、これも即座に「野田岩」と答える。 
 
今は銀座支店が出来て、そちらに行くようになったが、最後の晩餐では麻布本店の蔵造りの三階の座敷で食べたい。 
 
「うな一」のうな重「松」。 
 
 
うなぎの焼き方は関西風と関東式があるが、私は食べられるならどちらでも良い。 
関西風と関東風の境界線は静岡である。・・・と私は思っている。 
 
その静岡で今回の旅に同行したMさんが、私を「静岡2」という店に案内してくれた。「静岡1」という店は、生憎、休みだったからだ。 
 
常林寺の帰りに油山寺の紅葉を見に行った。 
 
 
「静岡2」の店で「うな重」の松を注文した。 
「野田岩」のうな重を食べ慣れている私には、少し重過ぎた。 
うなぎが3串分で、ご飯も二人前くらいある。蒸し時間が短い田舎風なので、うなぎの匂いがして少し気になる。 
 
それでも美味しかったので全部食べてしまった。 
午後8時30分に家に戻ったが、まだ腹がいっぱいで夕食は抜きにした。 
 
法多山・尊永寺の紅葉も見に行ったら、思い出した。 
 
 
来てから気が付いたが、かなり前に油山寺と尊永寺の 紅葉を見に来たことがあった。その時、尊永寺の厄除け団子が有名なので、それを食べた。団子で思い出すとは、私もボケたものだ。 
 
 
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心の伊達市民 第一号
心の伊達市民 第一号
北海道伊達市に2003年夏より毎年季節移住に来ていた東京出身のH氏。夏の間の3ヵ月間をトーヤレイクヒルG.C.のコテージに滞在していたが、ゴルフ場の閉鎖で滞在先を失う。それ以降は行く先が無く、都心で徘徊の毎日。 
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